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『黄金伝説』 生江有二著

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旧日本軍がフィリピンに隠匿した財宝の真実

「黄金伝説」「旧日本軍が秘匿」というタイトルだけを見たとき、何かう胡散(うさん)臭い「山下財宝のトレジャーハンター」を主役にした架空小説か、財宝にまつわる噂話を集めただけのルポ風の読み物かと思ったのが大間違いだった。筆者の生江氏は、1990年代、フィリピンのルソン島やミンダナオ島各地、また、日本の各地の市町村を訪れ、精力的に旧日本軍兵士や慰霊団に参加していた遺族たち、さらに実際に「山下財宝」を比全土で追い求める日比のトレジャーハンターたちを探し出し、インタビューを敢行している。そこから得られた個々人の戦争体験や財宝探しの経験に基づきながら、著者は、ルソン島北部の山岳地域で飢餓と「鉄の暴風雨」にさらされた将兵や在留邦人たちの軌跡、彼らをそのような状況に追いやった日本の軍部という「計り知れない闇」の存在、そして日本占領によって収奪されたフィリピン人たちがいかにして「山下財宝」という神話を編み出してきたのか、という「真実」について、説得力を持って読者を導いてゆくのである。本書は、「山下財宝」伝説をはるかに超えて、フィリピンと日本にまたがる現代史の重要な一面を読者に伝える、秀逸なノンフィクション作品だと言えるだろう。
      本書はまず、フィリピン全土にある「山下財宝発掘」事件や、トレジャー・ハンターたちを追いかける。かつて日比の新聞紙上をにぎわせた、「ルソン地方北部アパリ近辺の海底から引き上げられたプラチナ2万トン」事件や、「マニラ市イントラムロス内のサンチャゴ要塞における、世界の反共ゲリラ勢力を支援してきた米軍将校やイメルダ夫人による財宝発掘」ニュース、また、「バタンガス州タナウアン町で大統領府から手に入れた財宝地図をもとに発掘を行う比人トレジャー・ハンター」、さらに、「『死の行進』で有名なバタアン半島で私財を投じて山下財宝を探し続ける日本人ハンター」などが紹介される。それらに共通するのは、財宝のありかを示したとされる日本語の書かれた地図や財宝埋蔵地の近くの木に刺さっている犬釘の存在、また、地図の出所である高齢の元日本兵や財宝を探し続けていると言われる大統領府の役人たちの存在、さらに、出土してくる旧日本軍関係の銃器や装備品などである。著者は現役のトレジャーハンターたちを探し出しては、実際に現場を案内してもらう。旧日本軍の使用した「改造三八式野砲」と中国の文字が彫られた金貨数枚が見つかったという、ルソン地方北部ヌエバビスカヤ州ソラノ町近くの発掘現場にも足を運んだ。住民の姿もまれな山里に一緒に分け入り、マルコスの親衛隊も近くで宝探しをしたという山深い発掘現場で、夢を追い求めるフィリピン人ハンターの潔い態度に感銘を受けたりする。
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   このような財宝伝説を追いかけながら、筆者は戦後50年の節目に行われたマニラ会主催の「戦跡慰霊巡拝団」に参加する。アメリカ軍の反攻を受けて、ルソン地方北部山岳州に立て籠もるため、山下奉文将軍率いる日本軍将兵や在留邦人ら約5万人がたどったかつての「死の彷徨」のルートを、生き残った者たちが死者の慰霊のために再び辿る旅である。
   ところで、山下将軍傘下の兵団と在留邦人の終戦前後の動きは次のようになっている。1944年11月末にレイテ戦での敗北が決定的となり、同年12月15日、マニラの邦人社会に軍から避難命令が出る。在留邦人たちは2,3日の避難生活のつもりでわずかな身の回り品だけを持って列車や徒歩で北に向かったという。しかし、山下将軍は、1945年1月初めマニラ近郊のマッキンレーからバギオ市に司令部を移すと同時に、45年2月1日までにトラック200両と列車で1日200トンづつの物資を懸命にマニラからバギオ市と、鉄道の終点地点だったヌエバエシハ州サンホセまで送っている。米軍は同年1月9日にリンガエン湾に上陸したあと、1月末までに同州サンホセまで押し出し、バギオに空爆を加え始める。4月16日、山下司令部はバギオを放棄し、通称「山下道」を通って、さらに北部山岳地に向かう。しかし、米軍は、カバナツアンやサンホセ近郊に配置されていた日本軍部隊を次々と撃破。さらに、5月末までに、頑強に抵抗したバレテ峠の日本軍守備隊をも突破し、6月1日に戦車隊を先頭にバレテ峠を越え、なだれを打ってカガヤン平野部に進撃した。一方、山下司令部は6月17日に北部の山村のキアガンからさらに険しい山岳地域に避難するが、将兵や在留邦人の間で深刻な飢餓が拡がる。米軍は7月半ばにはキアガンに到達、山下兵団らを山岳地帯に完全包囲する。そして、日本の降伏を受けて8月31日に山下将軍がキアガンに下山、9月3日にバギオで正式に降伏文書に調印している。
   本書に登場する巡拝団の一行はキアガンからさらに、ジプニーと2時間以上の徒歩を強行し、ホーロガンという山深い集落にたどりつき、そこで慰霊祭を執り行う。その土地に最も関係の深い参加者から焼香を行うという巡拝団の慣習に従い、このホーロガンでは両親を現地で失った邦人女性がまず焼香台に立った。この女性は5歳の時、8歳の姉、両親と一緒にこの地までたどり着いている。当時、深刻な飢餓に襲われた在留邦人たちの間では、子供たちに少ない食糧を少しでも食べさせるため、母親が先に倒れるケースが多かったという。この邦人女性もある朝、目を覚ますと、母親と父親がすでに衰弱して死んでいた。通りがかった人の助けて両親を埋葬してもらったあと、残された幼い姉妹はあてもなく山中を彷徨する。しかし、ある朝、米軍キャンプの近くまでたどり着いており、妹を見つけた米軍兵士が姉妹を保護した。その後、その米兵の好意で姉妹は無事、日本まで送り届けられたという。死闘を繰り広げる日米兵士たちの間に挟まれて、在留邦人たちの多くが飢餓と「鉄の暴風雨」に巻き込まれて倒れる中、この姉妹のように、米兵によって窮地を救われたケースもあったことは驚きだ。国家や軍によって戦地に送り込まれた兵士たちにも、人間としての善意は発揮されたのである。
   このように山下将軍とその将兵たち、また在留邦人たちの軌跡を詳しく記したのは、バギオやサンホセ、カバナツアンやバレテ峠、キアガンなどそれぞれの激戦地や拠点が「慰霊巡拝団」にとって大切な慰霊の場所となっていると同時に、トレジャーハンターたちにとっても財宝が隠された場所として重要であるという事実である。本書のインタビューに答えた旧日本軍兵士らから、山下兵団が当時、実際にかなりのドル紙幣やペソ銀貨、そして「マルフク」と呼ばれる日本軍部が製造し、マニラに送ったと言われる金貨を兵士たちが苦労して山岳州に運び込んだことが明らかとなる。山下方面軍の情報参謀だった将校の一人は次のように証言している。
「この金貨は昭和19年(1944年)2月、戦闘機の護衛する重爆撃機で東京から台北経由、マニラに輸送され、方面軍のマッキンレー時代は経理部が管理していたものである。その量は金貨50枚ずつの木箱入り10箱を単位に頑丈な木箱で梱包、それが50梱包あったから、金貨の数は2万5000枚の計算になる。—(中略)— 山下司令部がバギオに移動するとき、金貨の一部は将来の万一を慮って各拠点や守備隊に配分されたので、情報部がバギオに運んだのは残りの三十梱包だったと聞いている。—(中略)— なおこのマル福金貨一枚を昭和25年に東京の貴金属店で換金した者があって、当時三万円で引き取られたという」。 
   また、ある経理部員の一人は筆者のインタビューに対し、山下兵団がキアガンからさらに山岳部に退避する際、布にくるんだマルフク入りの箱を首からかけて山道を登っていったと証言している。数10万ドル分のドル紙幣も一緒に多くの将兵たちが山に持ち込んだという。また、山下将軍が投降する際には、近くにいた兵団の間で、将軍5、左官3、尉官2、下士官1の割合で分配されたという。「残ったマルフクは軍司令部のトイレに捨てた」ともこの経理部員は答えており、バギオやマッキンレーの元司令部でも同様に処分された金貨があったことも明らかにしている。当時、日本軍の軍票はほとんど価値を失っており、米や物資の調達のためには『福』の字が入った「マルフク金貨」が役立つと考えられていたというのだ。
   さらに、ある経理部員は米軍に投降した際にマルフクを3枚もっていた。この部員は収容所の中で、マルフク一個をタバコ十箱に替え、残り二枚は収容所の重労働として働かされていた、森林伐採現場で監視するフィリピン人に握らせ、自分の労働現場の配置転換に成功した、とも証言している。そして実際に、戦後の1953年12月には、日本軍の元情報部将校が米軍将校や通訳と一緒にルソン島を巡る財宝発掘ツアーに出ている。山下財宝を発掘して当時まだフィリピンの獄舎につながれていた日本人戦犯の釈放を目指していたと言われている。しかし、この一行は結局、何も見つけることはできなかった。埋蔵場所と見られていた所がことごとく住民によって掘り返されていたのだ。特に日本軍が放棄していった車両の近くでは100メートル四方の土地がすべて掘り返されていたらしい。この時、すでにルソン島の日本軍敗走の山野が、一大トレジャーハンティングの現場と化していたのである。
   このように、山下財宝の根拠になったものがマルフク金貨であったことを、筆者は突き止めてゆく。また、山下将軍がルソン島以外には足を運んでいないにもかかわらず、山下財宝伝説がビサヤ諸島やミンダナオ島にも広がっているのはなぜか? この問いに対しても、筆者は、自身の父親からの聞き取りや戦記などの調査から、旧日本軍部隊が米軍への投降時にひたすら穴を掘り、それぞれ所持していた武器・弾薬や備品、連隊旗などをことごとく埋めたという事実に着目した。つまり、これらの現場を目撃していた住民たちが日本軍が埋めたものを「財宝」と勘違いしたという考察だ。戦争の嵐が去った後、財産や生計手段などすべてを奪われた住民たちの一部が、当座の生活を維持するため、日本軍の遺棄していったドル紙幣や銀貨、銃器や備品などを探し回ったことは想像に難くない。また、戦後もかなり過ぎたマルコス政権期に、大統領府の親衛隊が全国で財宝を探し回ったことはよく知られているが、これも、独裁政権下にため込んだ不正蓄財に対する国民の批判をかわすため、「これら私財の出所は親衛隊が掘り当てた山下財宝だった」という論理で切り抜けようとしたのもうなずける。これらの事実を総合すると、わずかなマルフク金貨とドル紙幣などしかなかった山下兵団の実際の「財宝」が、戦後から現代にかけて、その時々の国民や独裁政権の思惑を反映しながら、雪だるま式に「膨大な財宝伝説」に膨張していった、という方程式が浮かび上がるのだ。
   本書は、筆者の知的好奇心の「熱さ」がどのページからも伝わってくる。その象徴的なものが、1963年に東宝から独立した三船敏郎が初めて監督、出演した映画『五十万人の遺産』を紹介したくだりだろう。仲代達也や星由里子、山崎努などが共演し、フィリピンに埋蔵された財宝のありかを巡ってフィリピン政府の関係者を含めて三つ巴での争奪戦を描いた映画だという。モノクロ・ビスタサイズのこの映画を、閉館が決まった東京の大井武蔵館という往年の名画座で筆者が実際に見ている。その時、筆者は、映画の最後のシーンで、埋蔵金として使われた金貨のマルフクが仲代たちの持つ袋からこぼれ落ちた時、それが「本物よりふた回りほど大きかった」ことをスクリーンで確認したという。まさに筆者、生江氏のトレジャー・ハンター並みの情熱がこのくだりに表されている。

『黄金伝説』 旧日本軍がフィリピンに隠匿した財宝の真実
生江有二著 (幻冬舎アウトロー文庫・686円)
2000年12月25日発行

ナビ・マニラ第4号[Navi Manila Vol. 4]より

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