リゾートアイランド・セブのこだわり生活情報誌
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回想のセブ島暮らし

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自然災害編1990年代初頭から
By  松本 重樹

   2013年11月8日、ビサヤ地方中部を襲った台風「ヨランダ」はフィリピン史上最大の死者・行方不明者7500人以上を生じる甚大な被害をもたらした。この台風は100年に一度あるかないかの熾烈さだったが、四半世紀に及ぶ私のセブ島暮らしの中、台風を始め噴火、地震などの災害は数多く発生していて、これを振り返ってみたい。

コラソン・アキノ元大統領時代の自然災害
   現大統領アキノの実母、コラソン・アキノ元大統領の時代(在任1986年~1992年)はエドサ政変によって生まれたためということもないが、クーデター騒ぎと任期後半には大きな自然災害の重なった時代だった。
   1990年7月16日、ルソン島の山の避暑地で知られるバギオ市でマグニチュード(M)7.8の大地震が発生、死者1600人を生じた。私は1986年2月にバギオを訪れ、涼しさを堪能しながら同月に行われたアキノ対マルコスの大統領選の開票を市内の公園で眺めた経験を持つが、地震後の写真を見ると記憶にあった街並みは変り果て、泊まったホテルの建物の柱が折れ、無残に崩れ落ちていてゾッとした。

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   私がセブの経済特区に進出した工場に赴任したのは1991年5月だったが、その年の1月に台風「ルピン」がセブ市を直撃。先発していた同僚から、セブ市内は電柱が倒れ、都市機能は麻痺、マクタン旧橋の橋脚には日本の貨物船が激突、しばらく歩行者しか通れず、散々な目に遭ったと聞かされた。
   1991年6月、ルソン島中部、マニラから直線で100キロもない「ピナトゥボ山」が20世紀最大といわれる大噴火を起こす。噴火の直接の影響はセブにはなかったが、アジア最大のアメリカ空軍クラーク基地が噴火による降灰により機能不全となり、配備されていた戦略爆撃機B-52がマクタン・セブ国際空港に緊急避難で飛来。私の勤めていた工場が空港際にあり、金網越しにB-52の特徴ある尾翼を間近に眺めた。この噴火はやはり近くにあった海軍のスービック軍港と共にアメリカの持つ基地をフィリピンに返還させる契機となった功の部分もあるが、その分沖縄の基地は強化されてしまった罪の部分も生じた。

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ヨランダ以前の最大の人的被害
   台風被災は死者・行方不明者の数でその大きさが分かり、昨年の台風ヨランダ以前は1991年11月5日にあった台風「ウリン」で、セブから直行の高速船の就航するレイテ島西海岸のオルモック市街地が「鉄砲水」に呑み込まれた。この時の死者約5000人以上といわれ、フィリピンはこういった川沿いや海沿いに「スクオッター=不法占拠住民」が住むため、実数を掴めず気の毒な気もする。この大被害のため、セブではしばらくの間海で獲れる魚が売れなかった余波もあった。
   この時の鉄砲水は上流の山の違法伐採と開発が原因で、この手の山の荒廃による土砂崩れなどは大雨が降るとフィリピンは年中行事で、同島南レイテ州では2003年に死者約200人、2006年2月17日には集落を丸ごと土砂崩れに呑み込まれ、死者1100人以上を出す災害が相次ぎ発生。遺体捜索の困難さからそのまま放棄せざるを得ないという事件もあった。
   この他、ルソン島南端にあり端麗な姿を誇り「ルソン富士」の異名を持つ「マヨン山=標高2463m」の噴火なども常態化し、最近でも2013年5月7日、登山中の外国人観光客が山頂付近で突然噴火にあって5人死亡した事故など耳新しい。

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マニラ首都圏の台風、出水騒ぎと伊勢湾台風
   セブは大きな川がないために出水による長期間の浸水騒ぎというのはないが、マニラ首都圏では浸水騒ぎが年中行事のように起きている。マニラは元々マニラの語源にもなった「マイニラッド」という草の生えた低地帯に発展した都市で、出水に関しては昔から構造的な問題を抱えていた。この出水騒ぎで思い出すのは、1959年9月26日、昭和の3大台風(あと2つは室戸台風と枕崎台風)に数えられ、最大の死者5000人以上を出した「伊勢湾台風」がある。この時、東京・下町のゼロメートル地帯は大きな範囲に渡って床上浸水に見舞われた。下町にあった実家では昔から大きな台風予報が出ると、雨戸を釘で打ち付け畳を上げるのが年中行事で、この時は数日間床上浸水状態が続いた。学校は休校となり小学生だった私は、この出水の中を今のマニラの子どもと同じように嬉々として遊んだが、当時の下町はまだ汲み取り便所が普通で、便槽は水に浸かり汚物も一緒に流れて汚いといえば汚かったが、楽しい思い出として残っている。
   この伊勢湾台風による出水騒ぎで東京都は大規模な対策を行い、それ以降大雨が降ると浸水が当たり前だった地域からそういった騒ぎは消えた。この例から防災は行政のやる気と資金があれば可能で、この点フィリピンはどちらも掛け声だけ、しかも対策は他国の援助頼りで非常に劣るから、大雨による浸水騒ぎは当分解消されないであろう。

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2012年~2013年に続いた台風と地震
   日本へ向かう台風の発生地はサマール島東方沖海域が多かった。しかし気候変動の影響からかフィリピン近海の海表面温度の上昇が観測され、近年は意外な海域で発生、進路を取る台風が連発。2012年12月、台風「パブロ」が台風の来ない地域といわれたミンダナオ島南部を襲い死者1000人近くを出し、同地域の主要産業であるバナナ農園は壊滅的打撃を受け、バナナ生産はいまだ立ち直れていない。
   この2012年2月には地震にはあまり縁のないセブ島とネグロス島の海峡でM6.9の地震があり、ネグロス島では死者40人以上を出した。幸いセブの被害は軽微ながら、津波襲来のデマが飛び、海沿いのダウン・タウン地区の住民が高い所へ目指して血相変えて駆ける姿があった。この時、私は「少し揺れは大きいな」と思った程度で家から外に避難しようとは思わず、これは地震慣れしている日本人だからであって、周りのフィリピン人は外に飛び出し青くなっていた。
   翌年の2013年10月15日、ボホール島内陸部を震源地とするM7.2の地震が発生。この時、私は妻とセブ市郊外にある霊園に出かけていて、ボホール方面から地面を揺らして地震が伝わってくるのが分かり、かなり大きいとは思ったが、地面に立っていることはできた。公園のような霊園だからこれ以上の避難場所はなく、しばらく様子を見るため留まったが真っ先に思い浮かべたのはマクタン旧橋の「崩落」だった。
   この橋は前述した1991年の台風ルピンで橋脚に船が激突。その後の調査で架橋時の施工不備もあって、大きな地震があったら橋は落ちると、専門家から指摘されていた。幸いそういった大惨事は免れたが要注意の橋であることは確か。
   また、知人が最近市内に4階建てのビルを建て、これが地震で崩れたのではないかと電話連絡するも通じず、一層心配は募るもこちらも問題はなかった。地震時に知人は階段を這って逃げたといい、近年、市内に雨後の竹の子のように増えた高層階に住む住人は恐怖の時間を体験したのではないかと想像する。
   この「ボホール・セブ地震」では死者約220人を生じ、スペイン植民地時代に石灰岩を積んで作られた島内の古い教会など軒並み崩れ落ち、セブ市でも信仰と観光の象徴的な「サント・ニーニョ教会」の鐘楼上部が崩壊、再建の見通しは立っていない。

そして台風「ヨランダ」襲来
   地震の余震が収まり、救援、復旧最中の11月8日、台風「ヨランダ」がビサヤ地方中部域を直撃した。レイテ島タクロバン市など沿岸部の町は6メートルを超える高潮に襲われ、ボホール・セブ地震の惨事など忘れさせてしまう史上最悪の被害が発生。セブ島は全体で100人に満たない犠牲者とセブ市などの都市圏は物的には軽微な被害で済んだが、北部の町の家屋や学校は軒並み屋根が吹き飛ばされ、私もその惨状を見て北部の町で支援活動を3週間以上続けた。
   それにしても、この台風進路があと数十キロ南に寄っていたらセブ市を含めた東海岸の人口密集地やリゾート地のマクタン島も暴風雨と高潮によって水没、もちろん我が家も呑み込まれ、死者は数万人に上っていたのではないかと思われ、僥倖という言葉を噛みしめる。(まつもと・しげき) 

ナビ・セブ第7号[Navi Cebu Vol.7]より

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