リゾートアイランド・セブのこだわり生活情報誌
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「ブサイ村と菊」- セブで実を結ぶんだ日本人の「遺産」

By: 岡 昭 (日刊マニラ新聞セブ支局長)

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   フィリピンの庶民が描いてきた歴史のキャンバス。そこにすっかり溶け込んだ「日本の色」がある。戦前、そして戦後に草の根の日本人が残したもので、太平洋戦争中に日本軍が塗り込めた「負」の絵の具とは対照的に明るく、さわやかな色彩だ。日本菊、カボチャ、和紙の原料である楮(コウゾ)、畳材の藺草(イグサ)の栽培……。そのいずれもが、今ではフィリピンの庶民の貴重な生活の糧になっている。そこで、この国の土壌で実を結ぶ先輩・日本人の「遺産」のひとつを紹介する。
今、セブの下町で市民の胃袋といわれ東洋一の規模を誇るカルボン・マーケットやその近くにある一五世紀に建てられたカテドラルの前で売られている切り花のほとんどは、昔、日本の山里で咲き乱れていた菊の花であることに驚かされる。明らかに「伊勢菊」とおもわれる品種だ。
   売り子のマリアおばさんに聞くと、「日本菊を育てているのはセブ市西側の山の上にあるブサイ部落だよ。栽培が易しく、日持ちが良いのさ」。
   ブサイは太平洋戦争中、日本軍が「天山」と称し、上陸してきた米軍に最後の抵抗をした戦跡である。今はセブ市民の憩いの場となり、セブ市街を一望できる山頂を訪れる日本人観光客も多い。
   村を訪ねると、かつて農協組織を率いていたフェリックス老人が、次のような話をしてくれた。
   一九七〇年代の初めごろ、セブに来た旧国際協力事業団(JICA)の若い日本人が「山の上は気温も低いので、病虫害に強い日本菊の栽培に適している。切り花としてならバラより採算性も良いだろう」と、相当量の種を無償でくれたそうだ。
   「二十代の若さだったが、熱心に栽培方法を教えてくれた。名前を忘れてしまって残念だが、彼はブサイの住民の恩人だよ」と、老人は言葉を結んだ。最近では大きな地場産業として育ち、地元セブ都市圏は勿論、マニラ首都圏へも大量移出されている。
   この村を再訪して、「ブサイ村と菊」にまつわる秘話があることを知った。
   父親が戦争中、日本軍の兵士としてブサイ村に駐留していたという若いハンサムな日本の若者がこの村を訪ねて来て、美しい女の子に恋をした。だが、あまりの貧しい暮らしぶりに見かねて、郷里から菊の種を取り寄せ、恋人に栽培法を教えた。やがて任期の切れた青年は日本へ帰ることになったが、娘は「菊の花のように真っ白な赤ん坊」を産み、村中が沸き立った。それ以来、菊は「クリサンチマム・ハポン(日本菊)」と呼ばれ、「幸いもたらす花」として大切に栽培されているという。
   山肌に沿った五ヘクタールの畑で、白と黄色の菊が可憐(かれん)なつぼみを膨らませていた。

[おか・あきら]
1957年に戦後賠償機械の民間転用についての日比政府間プロジェクトに参画して初めて来比、以後、ジェトロの市場調査員、比政府機関の技術コンサルタントなどを委嘱されてフィリピンに定住、83年に家具・雑貨の専門商社「AQRA」を創業、フィリピン全土を歩く。セブ日本人会会長を延べ10年間務めて、現在、非営利法人(NPO)「新日系人ネットワーク」理事長、日刊マニラ新聞セブ支局長。在外邦人生存者叙勲「単光旭日章」受賞。

ナビ・マニラ第5号[Navi Manila Vol.5]より

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