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旧陸軍第一師団副官の松本實さん(94)

レイテ、セブ、25回目の鎮魂、慰霊の旅
文と写真: 麻生雍一郎
(マニラ新聞セブ支局)

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激戦の地リモン峠の第一師団の慰霊碑蔓草と雑草を取り払ったあと松本さんは靖国神社のお神酒浅草の観音様の写真を添え戦友の霊に深々と頭を下げた
半世紀にわたって培った
友情と信頼の絆

   太平洋戦争中の1944年11月から約2か月間、日米が死闘を繰り広げたレイテ決戦。九死に一生を得た旧陸軍第一師団副官の松本實さんは1967年以来、遺骨収集と鎮魂、慰霊の旅を続け、今年6月の訪比で25回目を数えた。オルモック、カンギポット、リモン山、タクロバン……。事前の連絡をしなかったにもかかわらず、松本さんは行く先々で地元のフィリピン人の家庭に迎えられ、お年寄りから幼子まで3世代、時には4世代が集う家族から握手と抱擁と食事の、実の家族を迎えるような歓迎を受けた。そこには半世紀にわたって1人の個人が培った友情と信頼の絆があった。

   1昨年、背中を手術したという94歳の松本さんは普段、杖を使っている。ところがレイテやセブの山の中の戦場跡に入ると、その杖を車の中に置き忘れて、上り始める。戦友の霊が呼んでいるのか、松本さんの気持を何かが突き動かしているのだ。砲弾が炸裂し。それまでずっと一緒だった参謀が5メートルも離れていない壕で即死したリモン山麓、足にけがをしたため、代わって斥候(せっこう)に出た兵隊が米兵に狙撃され、死亡した尾根―。「軍隊とは運隊(うんたい)だと痛感しましたよ。松葉杖をついていなければ、間違いなく私が斥候に出ていたでしょうから」。
   生死を分けたものの一つは塩だったという。戦闘による死亡だけでなく、険しい山稜を上り下りする中で脱落する兵も多かった。「私は油紙に塩を包んで携帯していました。上り坂で足が動かなくなっても、油紙を開いて塩をなめると、また足が動いて、前へ進めました」。
   12月になると米軍は日本軍の拠点オルモックへ逆上陸、補給基地も攻略し、日本軍は致命的な打撃を受ける。オルモックの町には建物の四方八方が穴だらけになって崩れかけている「コンクリートハウス」がある。上陸した米軍に追い詰められた26師団立石大隊が最後に立てこもり、集中砲火を浴びて壊滅した建物だ。

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日本軍投降地点の標示の前に立つ松本さんセブで抵抗した日本軍将兵は終戦後の8月28日ここで投降した
   ここに至って大本営はセブ島への撤収を命じる。だが、撤収のために用意できた上陸用舟艇の大発はわずかに4隻。夜陰にまぎれて4回だけレイテへ接岸できたが、第一師団のうち海岸の集結地へたどりつけたのは2600人余り、舟に乗れたのは700人。残された約2000人はレイテ島に置き去りにされた。
   第一師団の慰霊塔があるリモン峠からはカンギポットが遠望できる。日本軍が縁起をかついで名づけた歓喜峰がその語源で、峰というより一方が切り立った岩塊といった方が地形をよく表わしている。リモン峠からカンギポットまでの間は視界をさえぎるものはない。もはや部隊としての態をなさなくなり、通信手段もなくなった兵たちは“あの山のふもとへ集まろう”と目標を定めたという。そして、ここは名づけた名前とは反対にレイテ戦で最も悲惨な場所となった。戦場に散らばったり、海岸まで下りたもののセブ島へ渡れなかった日本軍将兵が最後に集結した場所だが、弾薬も食糧も尽きて孤立し、米軍の掃討を受けて全滅したという。
   松本さんは幸い大発に乗り込むことができた。「軍旗を小さく切って、お守り袋に入れて、船に乗りました」。ところが皆が緊張している中で、1人、泳げない松本さんが船の中で居眠りをしてしまう。セブに着いてから「よく、あんな危ない中で眠れたものだ」とからかわれたというが、「疲労困憊して山を下りたので、まぶたがふさがってしまったんですよ」と語る。身体の摂理に逆らわない、この自然体が松本さんを生き残りの1人にさせたのかもしれない。
   リモン峠からカンギポットにかけては日本軍の戦いの跡を象徴するように第一師団、星兵団、盟兵団、船舶工兵21、独歩364などの慰霊碑や卒塔婆が立つ。工兵碑など石造りの立派な碑もあるが、第一師団の慰霊碑は故片岡董(ただす)師団長の意向を汲んで木の慰霊塔になっている。
   「日本を戦場にして外国の軍隊同士が勝手に戦い、戦後、外国の軍人や遺族が戦場跡へ自分たちの慰霊碑を建てたら日本人は心穏やかだろうか。人の国へ行って、自分の満足のために慰霊碑を立てるのは良くない。慰霊の印しは木で作り、朽ちるときが来たら朽ちたらいい。リモン峠からカンギポットにいたる山野全体が日本軍の慰霊碑なのだから」。故片岡師団長は生前、そう語っていたという。
   その第一師団の木の慰霊塔には蔓草がまきつき、周りは夏草がむなしく繁っていた。取り払って整地した後、松本さんは靖国神社からのお神酒を供えてかしわ手を打ち、続いて浅草の観音様の写真を添え、線香をあげて拝んだ。
   レイテ戦に参加した日本軍の将兵数は8万4006人、生存者は7926人、この内、第1師団は参加1万3542人で、生存者800人と記録されている。生存率は6パーセントだった。
   セブに渡って抵抗した生き残り兵が降伏したのは、終戦後の8月28日。今でこそレイテ島やセブ島の小さな町にも宿泊施設ができたが、半世紀前にそんなものはなかった。戦争に巻き込まれて犠牲者を出した家庭も多かったのに、遺骨収集や慰霊に訪れた松本さんを地元の家庭が泊めてくれ、食事を作ってくれた。世話になった家庭の子供が大きくなり、結婚し、子供ができた。3世代、4世代の家族が集まった部屋で、目を細めて幼子を抱擁する松本さん、その様子を目頭を押さえながら見守る老女。「来年、95歳になっても来て下さいよ」。言葉にならない、心と心のふれあいの光景があった。

ナビ・セブ第12号[Navi Cebu Vol.12]より

松本さんが今年も来てくれたどこへ行っても地元の友人たちが松本さんを取り囲む
地図を指さしながら70年前の戦闘の模様を説明する
リモン峠から遠望したカンギポット日本軍が最後に集結し全滅した
米軍の集中砲火を浴び立てこもった立石大隊が全滅したオルモックのコンクリートハウス右から2番目が松本さんその左に筆者
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