リゾートアイランド・セブのこだわり生活情報誌
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今「I.T.パーク」は元「セブ(ラホグ)空港」

戦跡“70年”の今昔!
文・写真: 岡 昭
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   原爆で太平洋戦争が漸く戦火を収めた直後の戦跡が、70年を経た今、どう変わったのだろう。特に近々十年の変貌は凄まじい。
   都心にあったゴルフ場「クラブ・フィリピノ」は州政府との土地賃貸契約を解消されゴルフ場も経営続行が不可能となり、戦後の州政府は土地を新しく公開入札に付してアヤラ財閥が入手、「セブ・ビジネスパーク」として開発し大成功。引き続き、セブ・ラホグ飛行場跡地はホテル部分をマレシャ・ウオーターフロントに、ビジネスパーク部分をアヤラ財閥が公開入札の上で入手し、「I.T.ビジネスパーク」として「BPO」産業のメッカに変貌させ高層ビル街になっているのが現状だ。

 滑走路に「踏切(フミキリ)」?
1980年代にはセブの下町ではまだこういう馬車カレッサがたくさん走っていました   10数階建て以上の高層ビルが林立するITパ―クが近代的なビル街になったのは、近々数年のことだ。私が初めてセブへ来たのは1958年だった。マクタン島国際空港は未だ開業しておらず、セブ都心部に近い「ラホグ空港」だけ。又外国人向きのホテルは「セブ・プラザ」(現マルコポーロ)は未だ「建設にかかる」という話だけ。もう1軒空港前近くに、幸運を呼ぶという「マレー虎」を飼う「マジェラン・ホテル」だけがあった。このラホグ空港、地便はよいのだが、「滑走路」が短くて最新ジェット機の運行はならず滑走路延長も至難、加えて一般車両が走る「公道」が滑走路を横切るのだから、飛行機が発着の都度毎回、竹の踏切棒を上げ下ろしするのだから大変。そしてこの滑走路から飛行機が発着する場合、その都度踏切番は大忙し。
   万一踏切番が居眠りしたら「飛行機が滑走路踏切と衝突」という不可解な大事故が起きる。心配の種は尽きなかった。1960年代セブ海軍部隊の日の丸陣地跡の卒塔婆慰霊碑今のマルコポーロホテル跡地内


 米軍戦闘機が街頭にゴロン

   ここに私が撮影した珍しい街頭スナップ写真がある。当時、ラホグ空港滑走路脇の空き地(現ホンダの西北付近)に、アメリカ空軍の戦闘機(写真上)が雨曝しのまま置かれていたが、いつの間にか街頭から消えてしまった。知人の阿久津上等兵(戦時中、リロアン駐留の軍人)が調べられたが、米軍機としか分からなかった。25年前頃にはまだまだ戦争の遺物、遺品が街道筋にはまだよく見られたものだ。戦後30年を経た頃には、対日憎悪の意識や観念はすっかり薄れてしまった。私自身、面と向かって「ハポン、パタイ、バカヤロー」(日本人は死ね、バカヤロー)と罵られた記憶は全くない。

「日の丸陣地」の「セブ観音」
今のI.T.ビジネスパークは1960年代はセブ空港ラホグでした 
   戦後十数年を経て対日憎悪の意識もようやく薄らいだ1970年代に入りセブプラザホテル敷地内前庭にあった「日本兵供養の為の卒塔婆(ソトーバ供養木札」(写真下)6基を見苦しいから、1箇所にまとめるか、全てを廃棄せよ」という命令が比政府から出たが、セブ島海軍部隊・副司令「岡田貞寛元少佐」(2.26事件、岡田啓介総理大臣の長男)の奔走とりまとめにより今の「セブ観音」像が建立され、その後ご遺族の高齢化により私(岡昭、当時セブ日本人会会長)がその監理保全をマルコポーロ・ホテルのハンス総支配人(ドイツ人)の好意ある協力を得て、保全管理が今も続いている。毎年、終戦記念日の8月15日に慰霊祭が行われる。この機会に初めてのお話をしておきたい。
  「セブ島観音奉賛会」の二代目会長「須藤暢」(元海軍大尉)が最後のセブ訪問をされた時に、現地で涙を湛えながらのお話は「今いるこの地点が中央山岳地帯での山中彷徨『飢餓敗走』を私が発令した『日の丸陣地』司令部だった」と回想されていた。そしてこの陣地の一角に日本空軍の最後の一機が撃墜されながら突っ込んだ地点が今のセブ観音だったと涙された。こんな「悲しい戦争」は二度とゴメンだと語る「須藤元大尉」もやはり「学徒出陣」した大学生上がりだった。既に久しくご連絡がない。


「神風特攻機」はラホグ空港から

   セブから飛び立った特攻機「大和隊(久納好孚中尉)」が1944年10月17日にレイテ湾に特攻未帰還、10月23日にはやはりセブから出撃して未帰還の佐藤馨上飛曹が第2号と続いた。一方ルソン島マバラカット基地の敷島隊・関行夫大尉は4度目出撃で28日にレイテ沖の米艦船攻撃に成功した。そして彼に特攻第1号「軍神」への道が与えられた。戦後、アメリカの軍歴史記録と写真でセブから飛び立った大和隊の攻撃が何れも成功していることが立証されたから、久納中尉、佐藤飛曹やダバオから出撃した特攻隊は、貧乏くじを引かされたままだ。先任で海軍兵学校卒の関大尉は運が良かったのだと言われるが何かスッキリしない。数年前の慰霊祭で黙祷の時に響き渡る「海軍の起床ラッパ」を聞いて「空耳にしてはおかしい」と隣席に聞いたらやはりラッパの高音を確かに聞いたという。戦後「依り代」(ヨリシロ)もなく山野を彷徨して悲しさに耐える兵隊さんの「依り代=セブ観音」の御前に、縁あってセブに来られた皆さんがお参りされることをお願いします。元兵隊さんは皆孤独で寂しいのですから。

ナビ・セブ第11号[Navi Cebu Vol.11]より
セブ観音奉賛会2代目会長須藤暢元海軍大尉の最後の慰霊参加にて2006年3月日の丸陣地跡で
マルコポーロホテルの敷地内にあるセブ観音像

 

oka-san
[おか・あきら]


1957年(昭和32年)初めてマニラの地を踏む。戦後賠償機械の民間転用策コンサルタントとして外務省・賠償調達疔から、比国TRC(技術資源開発疔)に派遣。その後も「JETRO」、「OECF」で、技術開発コンサルタント。「家具と雑貨の専門商社」“AQRA”を自営。NPO法人「新日系人ネットワーク」を運営。

 

 
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