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第15回 コタバトの紛争

フィリピン医療ボランティアの旅 1998年9月29日
By: 星野邦夫

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「ホテルに泊まってはいかん」
   1998年9月29日、ミンダナオ南西部のコタバト空港に着いた私は、出迎えにきているはずの友人トマス・アチエンサとチュア・ベン・ユーの2人を探したが、その姿は何処にもなかった。「忘れたか?」と思った。「日を間違えたかな?」とも思った。フィリピンではいつでもあり得ることであった。空港建物前から乗り合いジプニーが発車するところだったので、後部座席に飛び乗った私は隣に座った男に、「この車はアリストクラット・ホテルへ行きますか?」と訊いた。男は、「ああ、行く。ホテルに着いたら教えてやる」と答えたので安心した。
   ホテルでチャックインしていると2人がやって来た。チョビひげを生やし腹の突き出たトマスは、コタバト・ロータリークラブ会長で建築業を営む中国系。痩せたチュアはトマスのいとこで、ロータリー会員、製材会社を経営していた。私は2人とセブで知り合っていた。空港へ出迎えに行ったら誰もいず、「日本人ならジープニーに乗った」と聞いてホテルへ追っかけてきたという。
   「ホテルに泊まってはいかん。チュアの家に泊まれ」とトマスが言う。前月、南ラナオ州の州都マラウィで言われたのと同じだと思った。私はホテルの方が自由がきくし、町なかを散歩して歩けるので好きだった。市場へ行って売られている鮮魚や小鳥などを見たいし、埠頭へ行って乗り降りする人を観察したかった。しかし、2人の好意を無にすることが出来ないので、チュアの家に泊まることにした。それは電動式の丸鋸を備えた工場の隣にある2階建ての豪壮なやかたであった。
   午後、チュア夫妻がこもごも語る町の話に慄然とした。前後関係を整理すると次のようになる。

「マギンダナオ族の王国だった」
  「ここにはもともとイスラム教徒のマギンダナオ族の王国があった。16世紀にスペイン軍が攻めてきて戦争になり、その後もアメリカ軍と戦った。19世紀末にべーツ協定がアメリカと王様の間に取り交わされて戦争は止んだが、他地方からキリスト教徒が移住してくるに及び、今度はキリスト教徒との紛争が起こった。この辺は沼沢地がほとんどであったし、イスラム教徒は土地を登記する習慣がなかったから、キリスト教徒が『合法的に』土地を占有するのを見て反発を感じた。それに学校では、『イスラム教徒は海賊』と教えるのに、我慢がならなかった。イスラム教徒がキリスト教徒の農場を襲ったり、教会を打ち壊したり、キリスト教徒がイスラム教徒を襲ったりする事件が絶えなかった。
   1972年、コタバト市郊外のウピという町で武装したキリスト教徒の集団がイスラム教徒の人たちを襲って6人を殺すという事件が起こり、それから両者の殺し合いがエスカレートした。このとき登場したグループは『イラガ・ギャング』と呼ばれた。イラガとは当時農民の間で恐れられた野ネズミである。リーダーは背の高い痩せた男で、『楊枝』と呼ばれた。グループは合宿して戦闘訓練を重ね、イスラム教徒を襲うときは黒チョッキを身につけ、お守りとして、聖水の入った小ビンを携帯した。
   イスラム教徒も対抗して、『バラクーダ(猛魚)』や、『黒シャツ党』という暗殺団を組織した。キリスト教徒は、『タコ軍団』とか、『グリーンベレー』などを組織して戦かい、やがて政府軍とイスラム教徒反乱軍『モロ民族解放戦線(MNLF)』との戦争にまで発展して現在に至っている」。

快活な人柄のイスラム教徒
   その日の晩、ホテルで会合があり、コタバト市内4つのロータリークラブの会長・幹事が集まり、夕食を挟んで深更に及ぶ議論があった。その結果、彼らは私の提案を受け入れてマギンダナオ州(人口60万、40%がイスラム教徒)とコタバト市(人口13万、特別行政都市)におけるハンセン病対策に協力することになった。これは偏に彼らの間で信頼篤いトマス会長の斡旋による。出席者の1人はイスラム教徒であった。外見上は他の人とまったく区別出来ない。そればかりか、快活な人柄で人気者でさえあった。ただアルコールを口にせず、食べ物は、いちいち豚が入っていないかどうか確かめてから口にすることが違っていた。

ほとんどがイスラム教徒の患者
   翌日、チュアの案内でコタバト州保健部長シロンガン医師を訪ねた。我々はNGOとして講習会ばかりでなく、患者の発見と治療にも協力することを申し入れた。部長が、「療養所も支援を頼む」というので、市の郊外にある国立ハンセン病療養所を見学に行った。ほとんどがイスラム教徒の患者であった。マニラやセブの療養所と違うことは、こじんまりして清潔なことである。マニラやセブでは、入院を拒否された患者や退院を命ぜられた患者が、家族ともども療養所の敷地内に不法占拠者として居住してスラム街を作っていた。郷里に帰っても受け入れて貰えないからである。コタバトにはそれがなかった。イスラム教徒は患者に対する差別がないように思われた。

貧富の差が歴然
   帰途、埠頭を見た。河口から40キロ上流のミンダナオ川(古名プランギ川)に面し、海を航行する船も接岸していた。500メートルを隔てた対岸にはニッパ椰子で屋根をふいた貧しげな家々が川に張り出していた(写真上)。そこからアウトリガーつきの舟に乗って婦人たちが買い物にやってきた。スカーフをかぶったイスラム教徒である。こちら岸はキリスト教徒のコンクリートの家が建ち並び、富の象徴である銀行や公設市場があった。貧富の差は歴然としていた。しかし、両者は市内では平和裡に暮らしているようであった。

「患者を1人発見したら50ペソ」
   その後、コタバト・ロータリークラブの協力で講習会が終わり、患者発見活動が行われた。トマスから、「患者を1人発見したら、50ペソの報奨金を出したいが、どうか?」と問い合わせてきた。「キツネ狩りでもあるまいし」と私は不快感を覚えた。日本の支援者に知らせたら、「やめろ」と言われるだろうとも思った。しかし、療養所に収容されている人のほとんどがイスラム教徒であることと、貧しいイスラム教徒の間にハンセン病が広がっていることを思うと、危険をおかしてイスラム教徒の村落に入って行く担当者のためには報奨金は仕方がないと悟った。それで「OK」の返事を送った。果たして州保健部の熱心な担当者がジープを駆って村々を巡回して歩き、多数の患者を発見し、治療したと報告があった。(了)

▶ ほしの・くにお
1933 年生まれ。外科医。1985年、ロータリークラブの世界社会奉仕委員長として訪比しセブのバンタヤ島の医療現場を視察した。その時、島の山中に「食事も薬 ももらえないので死んでしまう」とセブ国立らい療養所から「集団脱走」して身を隠している多数のハンセン病患者がいるという事実を知らされ、衝撃を受け る。以来10年間、笹川財団(現・日本財団)、国際ロータリークラブの協力を得て、自費で生活諸経費を負担しながらの献身的なボランティア活動を行う。北 はバタネス島から南はスルー諸島のムスリム地域まで、文字通りフィリピン国中を行脚しながら患者の割り出しと投薬治療に奔走した。1992年〜94年まで マニラ日本人会診療所に医師として勤務。現在、マカティ市でリタイアメント生活を送る。ボランティア医療の経験を題材にした短編小説に『セブの聖たち』、『魔の島クリオン島』、『マニラ・いのちの行進』(いずれも未発表)がある。千葉大学医学部卒、プロテスタント。



 

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