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第13回 ビコール土産物店

ィリピン医療ボランティアの旅  1989年5月23日    By: 星野邦夫
624 「ルソン島アルバイ州レガスピ市マーケット内ビコール土産店」は、私がビコール地方で唯一知っているアドレスであった。1989年5月23日、私はマニラから空路レガスピに入った。あいにく雲が邪魔して名物のマヨン火山は見えなかった。
   同伴の保健省役人ポシス女史と、私の家内ともども、第5地方保健局長を表敬訪問したあと、2人の女性をホテルに残して店を探しに出掛けた。ホテルのボーイが、「マーケットなら知っている」と送ってくれた。町のメーンストリートの突き当たりに、「レガスピ・マーケット」と大書した市場の建物があり、その正面に「ビコール土産店」があった。
   市場の建物の外に面した、間口2間の店で、雑多な品物が足の踏み場もないほど並べられた雑貨店であった。茶色い麻の手提げ袋がいっぱい天井にぶら下げられ、右手の壁の棚には大小さまざまな麻の袋ものが置かれ、それらは日本人の好みには合いそうもない、ごついものばかりであった。しかし、奥にはガラス・ケースに陳列されたエレガントなピンクやクリーム色のハンドバッグもあり、値段は千円ぐらいであった。
   左手にはこの地方の産物であるピリナッツが、大は60キロ入りの大きい袋に入れて床に投げ出され、小は茶筒ほどの透明なビニール袋が棚に載っており、1袋230円で売られていた。ピーナツほどの大きさと形をしており、クルミに似た歯触りと味がする。
   店番は女ばかり4人ほどで、そのうちの中年の1人が番頭格であろうか、私に、「何が欲しいか?」と訊くようなビコール語で話しかけた。それで、「ご主人はいますか?」と英語で尋ねたら、これは通じなかった。親指を突き出して、「ボス?」と訊いたら、判ったらしく、「ハウス」と答えた。彼女は外国人が主人を訪ねてきたと感づいて、一番若い、赤ん坊を抱いている娘に言いつけて私を家に案内させることにした。電話はないようだった。その娘は20才ぐらいであろうか、赤ん坊を他の店員に預け、草で編んだ袋を幾つか持つと、「こちらへ」というような言葉を発して手招きした。
   買い物客目当てのオートバイの横ににリアカーを取り付けたような3輪の「トライシクル」が集まる広場で1台を拾い、揺られて行くこと約10分、町外れに近い住宅地にやって来た。マルコス・イメルダ公園と標識がある荒れ果てた児童遊園地でトライシクルを降りた。値段は2人で2ペソ(約7円)であった。
   主人の家は公園の隣にあった。中流の下と思われる2階家で、敷地は狭くて全く手入れがされていず、土産店と同じに雑然としていた。私を案内してきた店員が外から声をかけると、老人の声が、「おう、おう」と聞こえた。店員が何か叫ぶと、老人がぼやく声が聞こえた。「なに、外国人の客だと?そんなヤツは知らんな」とでも言っているようで、裸のからだを覆う着物を見つけているようでもあった。かなり時間が経ってからドアが開き、出てきたのは西部劇のガンマンを思わせる、目つきの険しい、痩せて背の高い、姿勢の良い老人で、これがビコール土産店の主人、レガスピ・ロータリークラブの会長アシセロ・コラルデ(63才)、その人であった。
  「家は散らかっているから町へ行こう」と彼が言うので再びトライシクルを拾った。女店員は女中を兼ねるらしく、ホーキを持ち出して、庭を掃き、犬の糞を始末し始めた。
   彼の話によれば、「長年セブ市の裁判所判事を勤めたあと、2年前に定年退職して、それまで家内が経営してきたビコール土産店を手伝うべく、レガスピ市に戻った。地元のロータリークラブに入会したら、直ぐ会長に選出された」ということだった。私が先刻、店の番頭とみたのは奥さんだったのである。当日の夜、ロータリークラブの例会が開かれるというので出席を約して別れた。
   午後7時半、古色蒼然たるマヨン・ホテルでロータリークラブの例会があるのでポシス女史と家内を連れて出掛けた。会場は天井も壁もかまどで燻したかと思うほどすすけて黒くなり、正面に掲げられた国旗もロータリー旗も煮しめたように茶色く変色し、雑巾のように厚ぼったくなっていた。ボーイは汚れたバロン・タガログをまとい、髪の毛が薄い、無愛想な小柄な老人で、ロータリーの会員かと思ったら、そうではなく、せっせとビールビンを運んでいた。最初3人しかいなかった会員は段々その数を増し、用意されたテーブルに就いてビールを飲み出した。私は1人1人に日本から持って来た靴下を配り、用向きを説明した。
   午後9時、つまり定刻から遅れること1時間半に開会宣言がなされた時はコの字に配列された席が満員になっていた。テーブルの上には空のビールビンが林立し、室内はタバコの煙が充満して息も出来なかった。アシセロ会長の合図で一同起立し、国歌を斉唱してから祈祷があり、それから食事に入った。1時間ほどしてもう終わりかと思った頃、会長が私に、「挨拶しろ」と言う。演壇に立った私はビールに酔って真っ赤な顔をし、からだがふらついていた。そして、朦朧とした頭で、さて何から切り出そうかと迷った。日中に会長と話し合ったとき彼が、「第2次大戦でレガスピに進駐した日本軍人から『あーあーあの顔で』という軍歌を教わった」と言ったのを思いだし、即興に「あーあーあの顔で、あの顔でー」を歌った。ついでに銚子ロータリークラブと姉妹クラブという話を思い出し、「枯れすすき」も歌った。そして、「ハンセン病対策に協力してください」と頼むと一同拍手して同意を示した。早速その場で調印式が行われ、会長と私の間の契約書にサインされた。私が資金を送るから、レガスピ・ロータリークラブはハンセン病対策の講習会のスポンサーとなり、その後の患者発見、治療、リハビリに協力するという内容であった。
   これより先、私は会長宛に3回も手紙を送り、協力を依頼し続けたが、まったく返事がなかった。来てみたら手紙を受け取ってはいたが、協力に積極的でなかったことが分かった。理由の第1は会長自身が不景気で参っていた。第2は共産反乱軍の跋扈(ばっこ)で観光客が減り、町が沈滞状態であった。第3は会長の任期が6月末で切れるので、新事業に踏みきれなかった。それで返事をくれなかった。しかし、ここまで日本からやって来て、「あーあーあの顔でー」まで歌って頼まれれば、「ノー」とは言えなかったのである。
   ビコール地方はルソン島南部の細長い半島にあり、最大の都市レガスピ市(人口9万)のあるアルバイ州のほか4州がある。コプラ、麻、ピリーナッツ、魚、貝殻細工などが主産物であり、レガスピ郊外にそびえるマヨン火山と近くのカラスカイ海水浴場はフィリピンでも1、2を争う観光名所であった。
   1987年11月、台風がこの地方を襲い、高波で死亡と行方不明合わせて500人、家の倒壊、船の流失、農林産物の被害は甚大で、地方経済に壊滅的打撃を与えた。その上悪いことに、共産反乱軍がこのときとばかり暴れだし、橋を爆破したり、警察を襲ったり、軍隊を待ち伏せしたりして治安を乱した。さらに反乱軍をかたる盗賊団も跳梁して住民の苦難を倍加した。ハンセン病どころではないというのが本音である。
   翌日から私と家内の各州訪問の旅が始まった。保健省のポシス女史はマニラに引き返すことになった。「旅費や滞在費が出ない。あなたが出してくれれば同行する」と言ったので、私は、「予算がなくて」と断った。どうせ協力してくれるNGOを探す旅なので、彼女の同行は役に立たないと判断したからである。
   翌日は半島の東先端にあるソルソゴン州ソルソゴン町へ行った。レガスピ市から50キロ、バスで1時間の旅である。そこにはロータリークラブがないので、カトリック教会の司教宛に協力依頼の手紙を出したが、返事がなく、訪れてみたら、玄関払いを食った。途方に暮れた私たちは暑い田舎の町中を歩いていたら、たまたま州立病院があったので、立ち寄って婦長さんを探した。彼女はフィリピン看護協会ソルソゴン支部長をしていたので、事情を話して協力を依頼したら、「では看護協会として協力します」と快く引き受けてくれた。
   次いで南カマリネス州のナガ市(人口8万)へ向かった。レガスピ市を通り越し、更に90キロ西方へ行ったところである。ロータリークラブの会長はアメリカに移住して不在だった。それで、何回手紙を出しても返事が来なかったのである。代理を勤めるビジネスマンのコンセプション氏が協力してくれることになり、当夜彼が経営するホテルで例会があり、私はそこで対策について説明する機会を与えられ、宿泊場所も与えられた。
   翌日、ナガ市から北西方80キロの南カマリネス州のダエット市(人口6万)へ向かう。ロータリークラブ会長は任期中途で破産して辞任していた。しかし、元会長のカサル氏が協力してくれることになった。彼は74才、中国系ビジネスマンで顔が私の父にそっくり、眉が太く目が大きく、鼻が長かった。彼の言葉は印象的であった。「どこのロータリークラブも金がない。日本のロータリークラブが出した金で我々がハンセン病をなくすために奉仕活動をさせて貰えるならば、有り難い」。
   夕方ダエット市からレガスピ市まで約170キロの道のりを、バスで5時間かかって戻った。山中に来ると道路から50メートルの範囲の樹木がすべて切り取られて見通しが良くなっていた。これは反乱軍や盗賊団の待ち伏せを防ぐためであった。村落に入ると、人々は風通しが良い道路に座って夕涼みをしていた。コンクリートが冷えて快いのかも知れない。気温のせいか当地ではアスファルトを使わず、コンクリートで舗装していた。バスが警笛を鳴らして行っても、知らぬ顔で座り続けている。そして、あわやという瞬間にサッと立ち上がって飛びのいた。それはどこの村でも同じであった。
   6月27日朝、快晴。マニラ行きの飛行機に乗った私たちは富士山に似たマヨン火山(2452メートル)を心ゆくまで眺めることが出来た。フィリピン航空は観光客へのサービスのためか、上空を大きく旋回して優美な姿を充分に鑑賞させてくれた。頂上近い9合目から噴出している白煙が別れを告げるハンカチのように見えた。

▶ ほしの・くにお
   1933 年生まれ。外科医。1985年、ロータリークラブの世界社会奉仕委員長として訪比しセブのバンタヤ島の医療現場を視察した。その時、島の山中に「食事も薬 ももらえないので死んでしまう」とセブ国立らい療養所から「集団脱走」して身を隠している多数のハンセン病患者がいるという事実を知らされ、衝撃を受け る。以来10年間、笹川財団(現・日本財団)、国際ロータリークラブの協力を得て、自費で生活諸経費を負担しながらの献身的なボランティア活動を行う。北 はバタネス島から南はスルー諸島のムスリム地域まで、文字通りフィリピン国中を行脚しながら患者の割り出しと投薬治療に奔走した。1992年〜94年まで マニラ日本人会診療所に医師として勤務。現在、マカティ市でリタイアメント生活を送る。ボランティア医療の経験を題材にした短編小説に『セブの聖たち』、 『魔の島クリオン島』、『マニラ・いのちの行進』(いずれも未発表)がある。千葉大学医学部卒、プロテスタント。

*文中の年齢や料金、人口などは1989年当時のものです。(編集部)

ナビ・マニラ第13号[Navi Manila Vol. 13]より

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