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第12回 カガヤン川を越える

フィリピン医療ボランティアの旅  1989年10月18日 By: 星野邦夫

Crossing Cagayan River
   1989年月8日、私はカガヤン川を越えた。同行者はセブ医大学長シーサー・エスタリヤ(62才)とその妹でカトリック・シスターのテレシナであった。エスタリリヤ一家は信仰に篤く、長男シーサーは医者になったが、次男は神父になってカガヤン川増水で殉死を遂げ、長女テレシナと次女コラソンは修道尼になった。シスター・テレシナはバギオ市のセントルイス大学教授の職を投げうち、貧しい農民に奉仕すべく、北ルソン・イサべラ州の小村に赴任した。
   兄のシーサーがハンセン病対策に協力し出し、各地の患者発見と治療を支援していることを知ったシスターは任地の住民のなかにハンセン病患者が多いことに気付き、対策に従事することとなった。
   この日、途中で合流した私たち3人はシスターが臨時に雇ったジプニーに乗り、田舎道をやって来て、カガヤン川畔にたどり着いた。橋はなく、一昨日の台風で水かさが増えて、幅600メートルの急流があった。前日、ここで渡し舟が転覆して13人が死亡したばかりである。なかには水泳の達人もいたが、渦に巻き込まれて溺死した。ジプニーの運転手は屈強なからだをした中年男で、海軍の軍人あがりと自称していたが、いくら海軍上がりでも、ジプニーで大河を渡ることは出来まいと思った。荒れ狂う濁流をどうして渡り切るのかといぶかしがっていると、向こうから小舟がやって来た。長さ5メートル、幅1メートルほどの木製のモーターボートを2艘横に並べてつないでいる。ボートの上には細長い2枚の板を横に載せてあった。
Crossing Cagayan River3
   私はこれを見ていやーな予感がした。小学校6年のとき郷里の手賀沼で大勢の先生方が遭難した。このときは小舟を2艘宛横に並べてつないでいたのが、風にあおられて転覆したのだった。それから沼では2艘の小舟を繋ぐことはタブーになっていた。
   シーサーの顔を見ると、手を組み合わせて祈っていたが、やがて目を開けて、「ここにはワニがいる」と言った。シスターはどうかと見ると、確信に満ちた表情である。
   岸辺に波止場はなく、舟べりと砂浜の間に2枚の板が掛け渡され、その上にジプニーの車輪をのせてボートに登るのである。ところが、板は短いので陸に届かず、水辺から3メ-トル離れた水中に着地していた。従ってジプニーはじゃぶじゃぶと川水のなかに進み入り、やがてタイヤの下に板を捕らえ、爆音を上げて板のスロープを登って行った。
   私たちは成り行きいかんと息を詰めた。私は助手席に、シーサーとシスターは後部座席に座っていた。タイヤが板を踏みはずすのでは? ジープニーが横転するのでは? あるいは勢い余ってボートの反対側に飛び出すのではないか? などと恐れおののいた。その間、20秒。ジプニーは舟に渡された2枚の板の上にぴたっと止まった。
   私は一部始終をカメラに収めたが、翌日現像を依頼しようと点検したら、フィルムが入っていなかったことに気付いた。「しまった。もう一度行って渡し場の写真を撮らなければ」と言うと、シーサーは、「どんな大金を貰おうと、2度とあんな危険をおかしたくない」と身震いさせた。
   対岸はかってマグサイサイと呼ばれた村であったが、今は当地出身の下院議員の名を貰ってデルフィン・アルバノと改名されていた。シスターは3ヶ月前からここでハンセン病対策を開始していた。村の保健センターに勤務する若いガンバラン医師と保健婦が中心となり、それにシスターの手助けをするボランティアが数名対策に従事した。
   私たちが到着したとき、保健センター前の広場には50名ほどの老若男女子供たちが集まっていた。なかには一目でハンセン病と判る障害者もいたし、治療薬のせいで顔面が黒く変色した娘らもいた。彼らは朝から私たちの到着を待っていたという。治療中の患者と疑わしい患者を診察したあと、シスターに促されて私は挨拶した。
Crossing Cagayan River4
   「ボクは日本の農村に生まれました。子供のころ関節リュウマチにかかり、村の医者に治して貰ったので、自分も医者になって病人を助けたいと決心しました。53才のとき、フィリピンの恵まれない人々のために奉仕したいと希望してやってきました」と語った。
   シーサーはこの地方のイロカノ語で演説した。「ハンセン病は遺伝病ではなくて細菌によって起こる病気であり、一定の期間薬を飲めば完治する。日本のNGOが寄付した金をセブのロータリークラブを通じて全国のハンセン病対策に用立てている。治療を終了したものには自立のための援助をする」。
   人々の間にどよめきが起こった。「完治と自立!」それはハンセン病患者が得ようとして得られなかった夢であった。それが手の届くところに来たと知らされ、彼らは興奮して声を上げたのであった。
   そこは長さ250キロに及ぶ大河カガヤンが形作った肥沃な平野のど真ん中にある田園地帯で、患者たちは田圃のなかの一軒家に住み、人の目に触れないようにして暮らしていた。シスターはスタッフとともに1軒1軒たずねて歩き、患者を見つけては皮膚スメア検査を受けるよう勧め、検査が陽性に出た人には治療を受けるよう説得してきた。彼らは不治とされた病気が治ると知らされ、希望に満ちた生活を送るようになった。患者の喜びはシスターの喜びでもあった。それは木蔭で患者と話している彼女の美しい笑顔に見てとれた。
   翌日は北ルソンの大都市トゥゲガラオへ行き、ロータリークラブの会合に出席した。席上シスターがした講話は生涯忘れられない。
Crossing Cagayan River2
   「わたしはハンセン病に興味を持っていなかったので、周囲にこんなに患者がいると思いませんでした。しかし、ハンセン病対策に従事するようになり、患者がたくさんいることを知りました。ジプニーのなかで出会った人は明かな症状を持っていたので、わたしのところへ来るように言いました。後日その人が訪ねてきたので、一緒に保健センターへ行って診察を受けたら、やはりハンセン病と判り、直ちに治療が開始されました。また、あるときは路上で会った人が患者と気付き、声を掛けました。すると、その人は自分の家に来るように言いますので、ついて行くと、田圃のなかの1軒家で、家族のなかに3人の女の子が発病していました。わたしに見えなかったハンセン病患者が、いまは見えるようになったのです。かって、わたしは病菌がうつることを恐れました。そのために患者と出会うことを避けていました。しかし、今は違います。患者に出会い、その人が必要とするものを与えることが、わたしの任務と悟ったからです。わたしが所属する聖フランシス修道会の始祖である聖フランシスはハンセン病患者に出会ってから放蕩生活を止めて信仰生活に入ったと伝えられます。わたしは患者に仕えることにより、信仰を深めたいと念じています」
   なみいる会員はいたく感激し、大兵肥満のビジネスマンのイワ氏は涙を浮かべて協力を約束し、国立カガヤン・バレー病院の放射線科部長ラミレス医師は、「来年定年退職したら、余生をハンセン病対策に捧げたい」と言明した。
   会が終わってから、ラミレス医師が、「病院を見に来い」というものだから見学に行くと、日本の援助で貰った機材が使われないであった。放射線科では造影撮影用のフィルム交換機と急速注射器、中央検査科では原子光学分析機、酸塩基分析器、自動血球計算器などがビニール布をかぶって置かれていた。「技術がないとか、消耗品がないとかで使えない」とのことであった。
   翌1990年3月3日、私はシーサーと一緒にシスターを再訪した。5ヶ月の間に発見された患者は64名に達した。これはデルフィン・アルバノ村と隣のサント・トマス村の人口4万人のなかの患者数である。
   帰途私たちはトゥゲガラオ市へ出てマニラ行きの飛行機に乗ろうとしたが、動乱が起きた。カガヤン州のアギナルド知事が反政府の立場を表明した。それで中央政府は自治省長官と国防省局長の2人を派遣して説得を試みた。ところが、アギナルド派の私兵が2人をホテルに監禁し、あまつさえ局長フロリンド将軍を殺害してしまった。州庁には私兵2千人が立て篭もって反乱を起こしたという。国道上にヘリコプターが飛び交い、銃声も聞こえた。私たちは高速バスでマニラへ帰ることにした。
   ヌエバ・ビスカヤ州バヨンボンの橋に差し掛かったとき、バスは完全武装した兵隊に止められた。「これから戦争になる。バスは弾除けに使う」とのことだった。それで私たちは近くの州立病院に避難した。しかし、幸いなことに戦争は起こらず、翌朝バスが動いてマニラへ帰ることが出来た。
   3回目にシスターを訪問したときは路傍に放置された死骸を見た。共産ゲリラに殺された男であった。私は怖じ毛を震わせた。「明日はわが身」と思ったからである。何故恐れたか? 死ぬときは故郷で家族に手をとられ、タタミの上でと願っていたからである。「でも、間に合わないや。まあ、どこで死んでもし方がない」と、そう思い直したとき、私から恐怖の念が消えた。
   心のなかのカガヤン川を越えた。

ナビ・マニラ第12号[Navi Manila Vol. 12]より

▶ ほしの・くにお
   1933 年生まれ。外科医。1985年、ロータリークラブの世界社会奉仕委員長として訪比しセブのバンタヤ島の医療現場を視察した。その時、島の山中に「食事も薬 ももらえないので死んでしまう」とセブ国立らい療養所から「集団脱走」して身を隠している多数のハンセン病患者がいるという事実を知らされ、衝撃を受け る。以来10年間、笹川財団(現・日本財団)、国際ロータリークラブの協力を得て、自費で生活諸経費を負担しながらの献身的なボランティア活動を行う。北 はバタネス島から南はスルー諸島のムスリム地域まで、文字通りフィリピン国中を行脚しながら患者の割り出しと投薬治療に奔走した。1992年〜94年まで マニラ日本人会診療所に医師として勤務。現在、マカティ市でリタイアメント生活を送る。ボランティア医療の経験を題材にした短編小説に『セブの聖たち』、『魔の島クリオン島』、『マニラ・いのちの行進』(いずれも未発表)がある。千葉大学医学部卒、プロテスタント。

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