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第11回 北イロコス・マルコス王国

フィリピン医療ボランティアの旅  1988年9月18日 By: 星野邦夫ilocos norte

1988年9月18日朝、ルソン島北西端の北イロコス州ラオアグ空港に着いた。マニラの保健省が電報を打ってくれ、州保健部から出迎えにくる手筈になっていたが、誰もいなかった。後日分かったことだが、電報は、「9月16日に到着」となっていた。その日は飛行機便がないにもかかわらず、保健部から出迎えに行ったという。
町なかのテリシカ・ホテルにチェックインして散策に出掛けた。直ぐ近くに州庁舎があった。ギリシャのパルテノン神殿を思わせ
る重厚な太い4本の柱の上にレリーフのある三角形の破風のついたアルカティク風建築で、金文字で「北イロコス・キャピトル」と書かれていた。各地で州議事堂を見たが、どこにも負けない立派な建物である。北イロコス州は人口35万しかない。イサべラ州など100万以上の州がいくつもあるが、どこもみすぼらしい議事堂で、しかも州庁舎と同居していた。ここでは道路を隔てた向かい側にロンドンの国会議事堂ばりのクラシック調の大きな州庁舎が建っていた。さすがマルコス前大統領のお膝元である。Ilocos Norte2
まず、マルコスの生家を見に行く。乗合ジープニーでラワッグ川北岸に沿い、東方へ7キロほど行った小さい田舎町にあった。それは川から100メートルほど離れた道路沿いの、古い大きなレンガ建ての2階家で、入り口には頑丈な木の扉がついていた。私が家の前に立って、さて中に入ったら良いものかどうか、迷っていると、小柄な若者がやってきて、「なかを見たいか?」と訊いた。「見たい」「じゃ、ついて来い」と彼は先立って裏に回った。

そこは普通の農家の裏庭と同じで、手入れをしていないブーゲンビリアの茂みの間に壊れた馬車、水がめ、糸車などが放置されてあった。裏の扉も閉まったままで、公開はされていなかった。Ilocos Norte3
2階のベランダに繋がる石の外階段を上がると井戸があった。2階に井戸があるとは不思議な話だ。2階のベランダの床に丸い穴があいており、1階に口をあけている井戸の底へ麻縄に吊るした釣瓶で水を汲む。そのための鉄製の井戸車が2階の天井に下がっていた。釣瓶も車も日本の田舎で見られるのと同じである。昔倭寇がスペイン艦隊と戦って負け、この辺に逃げ込んだので、倭寇の血を持つ人がいると聞かされた。マルコスもそうではないかと噂される。日本の道具が残っていても不思議はない。2階に井戸があるので、バケツに汲んだ水を階段を登って運ぶ必要がない。台所が2階にあるとすれば、住居部分も2階にあると思った。1階は倉庫として使ったのであろう。

白髪の痩せた老女が現れた。「日本から来ました」というと老女は「わたしはマルコスの乳母だ」と名乗った。「どんな子でしたか?」と訊くと、「頭の良い素直な子」と教えてくれた。乱暴者ではなかったようだ。案内した青年が、「名刺をくれ」と言うので、日本の名刺を出した。まさか、2年後に日本へたずねて来るとは予想しなかった。やたらに名刺を渡すものではない。

ラワッグ川を見に行った。川幅は300メートルぐらい。川原で女たちが洗濯をしていた。腰巻ひとつの人が多く、それも浅瀬に座って洗濯するので、びしょ濡れでからだの線が丸見えであった。洗った衣類を草の上で干すのは着物にとり憑いた悪霊を追い払うためという。日本の明治時代もこんな状況であったかと想像した。Ilocos Norte4
ここの人たちはイロカノ人と呼ばれ、勤勉でケチとの評判である。私の相棒のセブ医大のエスタリア先生もそうで、気前のいいセブの人たちの間では、尊敬とも軽蔑ともとれる「イロカノ先生」と陰口を言われている。別に産業のない辺鄙(ぴ)な土地なので、そういう性格が生まれたのであろう。

市内に戻ってから、今度は20キロ南方のバタック町へマルコスの住居を見に行った。市外へ出ると直ぐ完成したばかりの大橋を渡った。この地方に相応しくない片側4車線の、500メートルの長さの鉄とコンクリートの橋である。その先は緑の田圃が広がる平原で、穀倉地帯となっている。碁盤目のような水路が掘られ、水路にはバナナや竹が植えられている。これもマルコスが日本の援助で作った灌漑用ダムのお蔭である。ずっと先に紫に煙るアブラの山並みが見える。

高速自動車道をおりてバタックの町に入ると美しい並木が現れ、教会、学校、役所など白く塗られた新しい、大きい建物が並び、マルコス王国を思い知らされた。田中元首相もここまではやらなかったであろう。

住居は生家よりも一回り大きいレンガ造り2階家で、玄関のドアが開け放されてあった。誰も止めるものがいないので、図々しく入って行くと、薄暗い廊下の先に広い居間があり、正面に黒い木製の棺が安置され、この年の5月4日に96才でなくなったマルコスのお母さん、ホセファ・エドゥラリン・マルコス夫人が寝ていた。棺のそばに喪服を着た上品な中年の婦人が座っていたので、挨拶して、「なかを見て良いでしょうか?」と尋ねると、「どうぞ」と答えて立ち上がり、棺の蓋に取り付けたガラス窓から死人の顔を覗かせてくれた。肉付きの良い、ふっくらした、血色のよい顔で、眠っているように見えた。こちらの習慣で、人がなくなると血液を抜き取り、防腐剤を血管に注入し、数日おきに防腐剤を交換する。するといつまでも生前と同じ姿でいられる。上品な婦人というのは大統領のいとこに当たるロブアチナ・マルコス夫人で、「ハワイにいる大統領が葬儀のために帰国するのを待っている」と説明した。

9月11日は大統領の71回目の誕生日に当たるので、広場にケーキを用意した。大きさは2階家ぐらい、焼くのに2週間かかり、20万ペソ(約1万ドル)の費用がかかったと新聞に出た。私も1口ご相伴に与ろうと舌なめずりして広場へ向かった。しかし、ケーキは平らげられ、ひとかけらも残っていなかった。メッセージを書いた看板だけ立っていて、「マルコス君お帰り!君が要る」と大書されていた。町の人が言うのを聞くと、「ケーキはベニヤ板の周りにクリームを塗っただけ」。

町のいたるところにマルコス支持のプラカードが掲げられてあった。食堂に入って牛肉、野菜、米飯の昼食をとったら27ペソ(約1ドル30セント)であった。物価は驚くほど安い。ホテル代も清潔な広い部屋で、ローズウッド製のカノピーのついた立派なベットに寝て、1人1泊220ペソ(約11ドル)であった。

北イロコス州はマルコスが出現するまで貧乏地帯で人々は外国へ出稼ぎに行くしかなった。一番行ったのはハワイの砂糖きび農場である。ところが、この人たちの間でハンセン病患者が何十人も発生して問題になった。彼らの郷里にハンセン病が流行していた証左である。これに気付いたマルコスは日本の笹川財団の支援を得て、1985年北イロコス州ハンセン病治療パイロット・スタディを立ち上げた。アキノ大統領によって継続され、対策が進んでいて、私の出る幕はなかった。

その晩、私は夢でうなされた。老女が右腕をおさえた。私は左手で彼女を押しのけようとしたが、力が入らない。声を出そうとしたが、出ない。「これは夢だな」と思った。醒めたいと思っても目がさめない。「うん、うん」とうなっていたら、最後の「うん」が耳に届いた。見ると天井に電灯がともっていた。ベットの足板が見える。室内には誰もいなかった。「なくなったジョセファ母さんが来たな」と思った。きっと埋葬して欲しいのだろう。それを私に訴えにきたに違いない。大統領のいとこのロブアチナ夫人に手紙で知らせなければと思った。

(文中の写真は2011年11月、編集部撮影)

ほしの・くにお
1933 年生まれ。外科医。1985年、ロータリークラブの世界社会奉仕委員長として訪比しセブのバンタヤ島の医療現場を視察した。その時、島の山中に「食事も薬 ももらえないので死んでしまう」とセブ国立らい療養所から「集団脱走」して身を隠している多数のハンセン病患者がいるという事実を知らされ、衝撃を受け る。以来10年間、笹川財団(現・日本財団)、国際ロータリークラブの協力を得て、自費で生活諸経費を負担しながらの献身的なボランティア活動を行う。北 はバタネス島から南はスルー諸島のムスリム地域まで、文字通りフィリピン国中を行脚しながら患者の割り出しと投薬治療に奔走した。1992年〜94年まで マニラ日本人会診療所に医師として勤務。現在、マカティ市でリタイアメント生活を送る。ボランティア医療の経験を題材にした短編小説に『セブの聖たち』、 『魔の島クリオン島』、『マニラ・いのちの行進』(いずれも未発表)がある。千葉大学医学部卒、プロテスタント。

ナビ・マニラ第11号[Navi Manila Vol. 11]より

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