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第10回 さい果ての島タウィタウィ

フィリピン医療ボランティアの旅  1988年4月30日 By: 星野邦夫

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   タウィタウィとはマレー語で「遠い」を意味する。日本語の「トーイ、トーイ」とどこか似かよった言葉である。タウィタウィはそれほど遠い、さい果ての島である。フィリピンでも南端のサンボアンガ市から海上300キロ、プロペラ機で70分、船で2日のところにあり、その先はマレーシア領ボルネオ島サバ州である。
   タウィタウィ州人口20万人、9割はイスラム教徒、大小307の島々
   がスールー海に浮かんでおり、いちばん大きいタウィタウィ島は直径55キロ、ジャングルで覆われ人は余り住んでいない。この西隣に飛行場のある小島があり、更にその南隣に直径5キロの小島があって、そこに州都ボンガオがある。ボンガオには船が停泊できる水深のある港があり、「中国埠頭」と呼ばれ、昔から中国の貿易船がホロ島とボルネオ島サバ州のサンダカンとの間の中継港として利用していた。従って町には中国商人の居留地があり、今でも賑やかな市場や商館がある。
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   ほかの島々は珊瑚礁で囲まれているので大きい船は近寄れない。昔から海賊が出没して小舟で航行する人たちや、小島の集落を襲う。彼らはホロ州東部のバラギギ島出身のどう猛なタウスグ族で、先祖代々海賊を生業としてきた。兵器はフィリピン政府軍からリースで借りていると噂される。1986年にはサバ州の銀行を襲い、警官を殺傷したあと、追跡してきたマレーシアの軍艦と一晩中海戦をやらかした。フィリピンとマレーシアの海軍が共同でパトロールして海賊の取り締まりをしているが、この海域はいたるところに珊瑚礁があって軍艦の航行に適せず、海賊の小さい快速艇に追い付けない。それで、今でも海賊は生き残っている。従ってタウィタウィ州の小さな島々は珊瑚礁と海賊のために孤立しており、1年に数日、大潮があるときだけ、バーター貿易の大きい船がやって来るので、その船に便乗して州都ボンガオへ来て親類縁者に会い、1年分の買い物をする。地方政府の関係者は報告したり、通告を受け取ったりする。大きい船がなぜタウィタウィ州の小島を訪れるかというと、海産物が安く買えるからである。イセエビが200円という信じられない安値で入手出来る。中華料理で珍重されるフカヒレや、ナマコなどもタダ同然の値段で買える。
   このような土地柄なのでハンセン病患者がどのくらいいるか、発見された患者にどうやって薬品を届けたら良いか分からなかった。

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単身タウィタウィ空港に降り立つ
   1988年4月30日、私は単身、おっかなびっくり、タウィタウィ空港に降り立った。カトリックの病院があると聞いたので、そこに手紙を出して今日のスケジュールを知らせたが、返事は貰ってなかった。本当は4月28日の飛行機で行くはずだったのが、雨のために欠航となった。飛行場が舗装されていないため、雨が降ると滑走路がぬかって離着陸出来ないとのことであった。28日をキャンセルして30日に行くと電報を打ったが、それも届いたかどうか、消息がないのでわからない。この地の郵便は何日かかるか分からないというし、政府がやっている電報局はタウィタウィに届かず、薬屋に併設した民間の電報屋に頼んだら、2日はかかるとの返事だった。
   鬼が出るか蛇が出るかと不安の面持ちで、田舎の駅みたいな空港の建物を出て行くと、中年のインド人女性が立っていて、「病院へ行くのか?」と訊いた。「そうです」。「迎えにきた。私はシスター・マタムだ」と名乗る。シスターにしては普通の身なりなのでおかしいと思ったが、他に身寄りがないので、「よろしく」と挨拶して、彼女が指差すジープに乗った。
   空港から州都ボンガオまで車で15分の道のりだったが、その間は息をのむ景観の連続であった。空港のある小島とボンガオのある小島の間の海峡の色は絵の具を溶かしたような濃い緑色で、白いコンクリートの橋と良いコントラストをなしていた。その先は右側に真っ白い砂浜が続き、左側はヤシの林があり、ヤシの梢(こずえ)越しに草で覆われた山が見られた。「ボンガオ・ピーク」である。スフィンクスに似た山の頂上にはサルの群れが住み、夜にはボルネオの灯火が見えるという。道端のいたるところに真紅のブーゲンビリアと黄色いゴールデン・トランペット・バインが咲いていた。
   町はずれのホーリイ・ファミリー病院に旅装をといた。20年前の設立で木造2階建て15床の小さい病院である。これはマニラに本部のある医療修道会が運営しており、医師、看護婦は修道尼である。修道尼は地域との密着を図るため、フード、ガウンなどのユニホームをつけず、平服である。もちろん、化粧も装身具もない。

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イスラム反乱軍とマラリアの島
   院長ドルセ・コラソン・べラスコ女医は30台後半、面長の美人である。医大を卒業したあと3年間修道院で修行してから、8年前にこの地の唯一の医師として派遣された。以下は彼女の談である。
   赴任当時は政府軍とイスラム反乱軍とが激しい戦闘を繰り返していた時代であった。谷間にある病院を挟んで右手の丘に陣取った政府軍と左手の丘にいる反乱軍との間で銃撃戦があった。戦闘が始まると弾丸が病院の上を交差するので、病院のスタッフは頭を手でおさえて地下室へ避難した。そのあと、傷ついた兵士たちが担ぎ込まれ、修道尼たちは止血、縫合、体に入った弾抜きに追われた。1晩に70名もの怪我人が運び込まれ、徹夜で治療したこともあった。
   政府軍が先に来ると、あとから来た反乱軍には先客がいるとこっそり教え、ほかへ行くように勧めた。反乱軍が先になり、政府軍があとの場合でも同じである。病院のなかで敵味方が鉢合わせをしないように苦労した。ときには一緒になってしまい、病院前で撃ち合いになったり、手術が終わった患者を狙撃兵が撃って絶命させることもあった。
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   あるとき、漂海民バジャオ族の18才の男の子が右腕をサメに食われてやってきた。すでに受傷してから2日も経って化膿していた。いのちを助けるためには腕を切断するしかないと告げると、家族が相談して、「バジャオ族の男は右腕がなくなり、櫂(かい)を漕げなくなれば、死んだほうがまし」と答えた。それで、骨が見えるほどの深い傷を毎日治療したら化膿が止まり、治ってきた。その部分だけ細くなったが、櫂を漕ぐのに支障はなくなった。
   1984年には病院のスタッフがみなマラリアに冒され、閉鎖せざるを得なくなった。わたし(べラスコ女医)自身も熱のために床に着き、応援に来てくれた看護婦に点滴をして貰った。看護婦が部屋を出て行こうとしたとき、わたしは突然全身に戦慄が走り、意識を失い、呼吸が停止した。人工呼吸により助けられたが、これは点滴に入っていたキニーネのアナフィラキシ-・ショックであった。
   病院には日本人の看護婦もいた。東京本郷出身の平田初枝さん(40才)である。彼女も2年前にマラリアにかかり、教会のミサの途中に失神して倒れた。そのときは心臓マッサージをして貰って助かったが、気がついたとき、いちばん最初に言った言葉が、「シスター、もう大丈夫です」であった。平田さんはそのときの模様を覚えていて、朦朧(もうろう)とした意識で英語でそう言えたことを自慢するのである。そのうち州立病院が開設されたので、外来患者だけ取り扱うことになり、スタッフの負担は軽減された。
   私がタウィタウィに到着した日の午後、ボンガオ町のマラリア対策委員会があるというので出席した。何と住民の8割がマラリアに冒されていると聞かされて仰天した。2週間に1回、DDT(日本では発ガン性のため使用禁止)を散布したり、住民の集団治療を実施することを話し合った。委員会の後半でハンセン病対策の議論になった。ドルセ院長はすでに週2回のハンセン病クリニックを始めており、74名の患者に多薬剤療法を施していた。それで、彼女を中心にして対策を推進して貰うことになった。
   会議の途中、雨が降り出した。「しめた、これで涼しくなるぞ」と内心思ったら、委員の1人が「雨が降ると暑くなって困る」とぼやいた。雨が止んだあとは湿度が上昇して一層蒸し暑くなる。トコロ変わればシナ変わるとは、このことだと思った。

▶ ほしの・くにお
5895   1933 年生まれ。外科医。1985年、ロータリークラブの世界社会奉仕委員長として訪比しセブのバンタヤ島の医療現場を視察した。その時、島の山中に「食事も薬 ももらえないので死んでしまう」とセブ国立らい療養所から「集団脱走」して身を隠している多数のハンセン病患者がいるという事実を知らされ、衝撃を受け る。以来10年間、笹川財団(現・日本財団)、国際ロータリークラブの協力を得て、自費で生活諸経費を負担しながらの献身的なボランティア活動を行う。北 はバタネス島から南はスルー諸島のムスリム地域まで、文字通りフィリピン国中を行脚しながら患者の割り出しと投薬治療に奔走した。1992年〜94年まで マニラ日本人会診療所に医師として勤務。現在、マカティ市でリタイアメント生活を送る。ボランティア医療の経験を題材にした短編小説に『セブの聖たち』、 『魔の島クリオン島』、『マニラ・いのちの行進』(いずれも未発表)がある。千葉大学医学部卒、プロテスタント。

ナビ・マニラ第10号[Navi Manila Vol. 10]より

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