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第9回 ネグロス島の戦争と平和

フィリピン医療ボランティアの旅  1984年12月 By: 星野邦夫

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   1984年12月、私がネグロス島西ネグロス州都バコロド市を初めて訪問したときは不況の真っ最中で、町は火が消えたようであった。市内一番のホテル・シーブリーズは灯火管制をしているのではないかと思わせるほど暗く、がらんとしたロビーに薄暗い裸電球が1つぶら下がっていた。たくさんあったカジノ、バー、キャバレーの類はすべて閉鎖し、商店は売るものがなく開店休業である。街路を歩くと、どこからともなく子供たちが集まってきて手を出す。手を自分の口に運び、食べ物がないという身振りをする。暗がりにはボロをまとったホームレスたちがごろ寝していた。
   日本の守口ロータリークラブがここで医療奉仕をするので、私も参加した。場所はバコロドから海岸線を35キロ南下してから奥地に向かって15キロ行った、カンラオンという山の中腹の村落であった。そこの市場で衆人環視のもとで無料診療を体験して、社会奉仕を考えさせられた。そして、日本と余りにも懸け離れた村人の貧困さにショックを受け、自分の使命を自覚させられた。私たちは村長宅に泊めて貰ったが、その家はコンクリート塀を巡らせ、望楼を備えた頑丈なゲートを備えてまるで城砦であった。それは周囲にいる共産ゲリラに対する防備で、村長自身予備役将校であり、邸内に政府軍の1分隊を常駐させていた。
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   守口ロータリークラブが奉仕を始めたきっかけは、会員のなかに戦争中、軍医としてネグロス島に出征した人がいて戦友の遺骨収集の旅に来て、地元民の余りにも悲惨な生活振りを見聞して医療奉仕を提唱したことと、現地に日本人の農業指導者がいて支援を呼びかけたことにある。それは東京の拓植大学を卒業して直ぐフィリピンへやって来た2人の指導者で、渡辺茂美氏はバコロドから20キロ南の海岸に近い、田園地帯のバゴ町で、水野文夫氏はバコロドから東方の山中の畑作地帯のムルシア村で青年のための農業研修センターを開いていた。ボランテイアグループである「オイスカ」の派遣となっていて、フィリピンではNGOとして正式に認められていた。2人とも30台前半の働き盛りで、地元の青年たち10名と寝起きを共にして日本式の規律と農業技術を教え込んでいた。
   水野氏は松戸の出身で、私と郷里が近いので格別懇意にさせて貰った。彼は粗末な家に住み、地元民と融和した生活をしていたが、あるとき、50名もの強盗団に襲われて電化製品や食料、肥料などを盗られるという事件に遭った。それからバコロド市内に移り住んだが、そこでも5名の盗賊団に電化製品を盗られたという。ともかく治安の悪いところであった。
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   1985年5月、私は単身で訪問した。目的はカバンカラン町支援である。前から連絡をしておいたので、カバンカラン・ロータリークラブ会長のアーネスト・エルペ医師が迎えに来てくれた。バコロドから車で海岸線に沿って南下すること3時間、距離にして100キロの地にカバンカラン町があった。旱魃と洪水、それに大火、砂糖不況などが追いかけて町を襲い、餓死者をたくさん出した。
   先ず町立病院を見る。木造平屋20床、医師2人が内科、小児科の診療をしており、外科手術はバコロドへ行くしかない。救急車はない。病院の一部に栄養失調児病棟が設けられ、地元のロータリークラブが運営していた。2才未満の、骨と皮ばかりに痩せ細った赤ちゃんが6人収容され、母親も一緒に寝泊まりしていた。どの子も老人みたいな皺だらけの顔をしており、手足は針金のように細かった。母親たちも栄養が悪く、子供と一緒に給食を受けていた。スタッフは栄養師1人、看護助手2人で、人件費と給食代、薬品費などあわせて月3万円かかるという。
   町を一巡して驚いたのは、どの家も貧しいことである。ロータリークラブ会員の家さえ廃屋のように汚れきっていた。洪水の後遺症がまだ残っているからでもあった。市場は水に押し流されて消失したので、道端で商いをしていたが、品物が少なく、客はいなかった。町全体が泥のなかから発掘されたばかりのようであった。
   1986年7月、セブに移り住んだ私は毎月1回、バコロドへ医療奉仕に出掛けることにした。宿泊はロータリークラブの会員ホクソン医師の家で、水野氏がジープを運転してきて診療会場へ案内してくれた。
   1987年元旦、バコロド大聖堂でのミサに出席した。神父アントニオ・フォーティッチ師(Antonio Fortich)が説教壇上に立って開口一番、「平和がめぐってきた。お目でとう!」と言ったら、千名ほどの会衆が一斉に立ち上がって、「おーっ!」と歓声を上げ、拍手して床を踏み鳴らし、どよめきが暫く鳴り止まなかった。民衆がいかに平和を望んでいたかを痛感させられる場面であった。フォーティッチ神父の人気は抜群で、週2回貧民のために炊き出しをするほか、カバンカラン町の近くに精糖工場を作って労働者に経営を任せていた。そのために政府や軍から神父は共産主義者と見なされて、住宅を爆破されたことがあった。
この正月は政府軍と共産反乱軍との間に停戦協定が結ばれ、両方の兵士は里帰りしていた。だから、大聖堂には両軍の兵士が混じり合っていたわけである。
   しかし、同年2月には停戦協定が期限切れとなり、バコロド市内は再び戦場と化した。何度も警察署が反乱軍により襲われて警官が殺され、銃が奪われた。反乱軍は町中にアジトを作り、そこに潜んでヒット・アンド・ランの戦術を採った。市民は誰もアジトを教えない。普段から警官は悪事に加担すると、噂されていたからである。それで警官は恐ろしくなり、出勤途中は制服を着なくなり、警察署の建物全体に大きい網を掛けて手榴弾を投げ込まれないように工夫した。街角に要塞のような土嚢を積んでいざとなれば、逃げ隠れるようにもした。
   何故ネグロス島に反乱軍が多かったかと言えば、シンパが多かったことと隠れ住むのに都合の良い山地が広がっていたからである。この島には砂糖きびの大農場が発達し、中世さながらの地主と農民の関係が保持されていた。1950年代には砂糖相場が上がって農場主は大儲けをし、砂糖貴族と称されるほどの栄耀栄華を欲しいままにする時代があった。そしてバコロドには立派な飛行場、ゴルフ場、カジノ、バー、キャバレーが出来た。ところが、ベトナム戦争が終わると相場が一挙に下落し、深刻な不況をもたらすことになる。食うに困る人たちが増え、盗賊が跋扈(ばっこ)し、軍や警察の規律がゆるんだたので、そこに共産反乱軍が入り込むスキが生じた。民衆は反乱軍の活躍に拍手喝さいを送り、神父でさえも、「解放の神学」を信奉する人が現れ、山にこもる反乱軍にミサを授けに行くようになった。
   1988年6月、農地改革法案が国会を通過したが、それは抜け穴だらけのザル法案で、民衆が求めていた農地解放にほど遠かった。アキノ大統領が財閥出身である上、国会議員は地主ばかりだから、無理もなかった。
   1990年、水野氏が共産反乱軍に誘拐された。ムルシアの丘陵地帯に桑を栽培し出して反乱軍のテリトリーを侵したというのが、理由である。桑の栽培と養蚕技術の導入は水野氏が考案した農民の生き残り策であった。反乱軍により山中を引き回されている間、水野氏は何度か殺されると予感した。それは彼らの議論が、養蚕は多国籍企業を助けるだけで、地元農民を収奪することになるとの方向へ進むときであった。しかし、彼が農民と同じような生活を続け、青年らと寝食を共にしていたことから、「そのような野望はない。農民のためになる事業を企画した」と理解され、3ヶ月後に無罪放免と決まった。水野氏は帰国したが、渡辺氏は残って桑の栽培と養蚕を続け、ついに10年後、100世帯の農民に養蚕事業を行わせるまでになった。繭はバゴ市にある彼の訓練センターで生糸にされ、イロイロにある織物工場へ出荷されて、パイナップル繊維やバナナ繊維と混ぜて織られ、フィリピン式礼服の男性用バロン・タガログや、女性用キモナに仕上げられている。
   2002年4月、私が訪問したバコロドは平和に満ちていた。町並みは清潔に整えられ、乞食もいなければ、泥棒もいない。反乱軍がいた山中には公園が出来ていて、エンジェルトランペットの花盛りであった。バコロドからずっとはなれた田舎ではまだ反乱軍が残っていて、軍のパトロール隊と衝突をしているという。安全地域が増えるか、減るかは、これからの政府の政策ひとつにかかっている。

ナビ・マニラ第9号[Navi Manila Vol. 9]より

▶ ほしの・くにお
   1933 年生まれ。外科医。1985年、ロータリークラブの世界社会奉仕委員長として訪比しセブのバンタヤ島の医療現場を視察した。その時、島の山中に「食事も薬 ももらえないので死んでしまう」とセブ国立らい療養所から「集団脱走」して身を隠している多数のハンセン病患者がいるという事実を知らされ、衝撃を受け る。以来10年間、笹川財団(現・日本財団)、国際ロータリークラブの協力を得て、自費で生活諸経費を負担しながらの献身的なボランティア活動を行う。北 はバタネス島から南はスルー諸島のムスリム地域まで、文字通りフィリピン国中を行脚しながら患者の割り出しと投薬治療に奔走した。1992年〜94年まで マニラ日本人会診療所に医師として勤務。現在、マカティ市でリタイアメント生活を送る。ボランティア医療の経験を題材にした短編小説に『セブの聖たち』、 『魔の島クリオン島』、『マニラ・いのちの行進』(いずれも未発表)がある。千葉大学医学部卒、プロテスタント。

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