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第8回 恐怖の島ホロ

フィリピン医療ボランティアの旅  1985年10月 By: 星野邦夫

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   「外国人は来るべきでないと電報が入った」とトニーが言った。
   1985年10月のこと、ところはマカティ市ベル・エアー・ビレッジのフィリピン医師会長トニー・オポーサ邸である。「大丈夫、行って来るよ」と私が答える。「勝手にしろ」とトニーは言って受話器を取り上げると、フィリピン航空マニラ国内空港事務所を呼び出し、「これから日本人が行く。サンボアンガ行きの飛行機を待たせておけ」と命じた。フィリピン航空の嘱託をしていたトニーは顔がきいた。
   ミンダナオ最西南端のサンボアンガ市から海上140キロのスルー州ホロ島は治安が悪いことで有名だった。だから私が「行く」と言い出した時、トニーはサンボアンガ保健所長に電報を打って安全を確かめたのである。
   「大丈夫」と言った私には成算があった。先年サンボアンガ市で知り合ったプロテスタント系牧師見習いのルーベン・ジョーが、「ホロへ行きたければ、いつでも案内する」と申し出ていたからである。彼はホロ出身で中国系の両親がホロ町マーケットに雑貨店を経営していた。ハンセン病対策を実施する為に何が何でも行かずばなるまいと私は意気込んでいた。無鉄砲と言うか?
   マニラ発サンボアンガ行きのジェット機内で私の隣に 座った少年は10才ぐらい、顔色が蒼ざめ、寒そうに震えていた。「どうしたの?」と尋ねても英語が分からないらしく黙っている。「この子は白血病なのです」と向こう側に座った母親が答えた。眼鏡を掛けたインテリらしい女性だった。改めてその子を見ると、女の子に見えるほど長いマツゲを伏せ、震えを押さえるかのように両手で膝を抱いている。母親の向こうにはムスリム帽の父親もいた。サンボアンガ空港で待ち構えていた牧師見習いのルーベンと一緒になり、ホロ行き双発プロペラ機に乗った。白血病の子も一緒だった。ルーベンの通訳によれば、父親ハッジ・モハメッド・サリはホロ町にあるイスラム自治政府事務所の副所長、母親はスルー州保健部長ネルサ・アミン女医の義妹。一人息子のアランはマカティ・メディカル・センターのゴメス医師の診断を受け、「6ヶ月の命」と宣告され、失意の帰郷をするところだった。
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   30分後、前方に藍色にかすむ島影が見えてきた。ひときわ高い三角形の山はバド・トマンタンガ(涙の山)と呼ばれ、日本の富士山と同じく、島から去る人も、戻る人もこの山影を見て涙を流したという。飛行機は山裾に広がる緑豊かな丘陵地帯に近付き、やがて海上を覆うように造られた住宅の集落上を一気にまたいだと思ったら着陸した。長さ6キロ、幅2キロの小島である。
タラップを降りた乗客は直ぐ下まで迎えに来た人々と握手したり、頬擦り合わせたりして挨拶し、いなかの駅舎みたいなターミナルの建物には入らず、直接敷地の外へゾロゾロと出て行った。
   アラン坊やを迎えに来た中年の女性らは叔母たちであろうか、すでに診断の結果を知っていて、貧血の強い少年をかわるがわるいとおしげに抱き締めては額や頬にキスした。アランは嬉しそうな、照れたような表情をして、大人たちの愛撫に身を任せ、羨ましそうに眺めている私を横目で見た。
「そこの人も家においで」と私に声を掛けたのは、叔母たちのうちでも大柄な女性で、他の女性たちが半纏のような着物に腰巻を当てているのに、白いワンピースを着ていた。州保健部長ネルサ女医である。カトリック信者だが、夫はイスラム教徒で家具商をしていた。
   彼女の家で昼食をご馳走になっていると、電報が配達され、「日本のドクターが行ったから宜しく」とマニラのトニーからだった。私の身分を知ったネルサ女医が訊いた。「アランの治療をどうしたら良い?」
「骨髄移植しかない」
「日本で出来るか?」
   「出来る」と私は答えてから、思いを巡らせた。友人が院長をしている松戸市立病院で骨髄移植をしている。治療費は嵩むが、ロータリー・クラブやライオンズ・クラブなどに頼めば、支援してくれるだろう。そう説明すると父親のモハメッドが言った。「これは家族会議で相談しなければならぬ。数日待って欲しい」。
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   ネルサ女医が宿舎として指定したのは、州立病院官舎に住むラオ家であった。長男ポール(40才)は病院の外科部長、夫人は小児科医で町で開業し、5人の子がいた。姉のマリオン(48才独身)も病院の小児科部長をしていたが、最近義妹と一緒に開業した。次姉リリアン(42才独身)は薬剤師で姉の開業を手伝っている。この人たちはカトリック教徒だが、父親はイスラム教徒で3人の夫人を持ち、密貿易に従事している。第1夫人、つまりポールの母親はカトリックで、17人の子を産み、15人成人し、このうちカトリックは12人、イスラム教徒は3人、宗教に寛容な一家である。ポールの案内で州立病院を見学した。古い木造2階建ての建物は腐りかけており、階段はギシギシと音がして左右に揺れた。外科医はポールしかいない。刀剣、銃弾、手榴弾、地雷による怪我が多く、一度に大勢運び込まれることがある。手術していると、背中に銃口を押し当てられて、「こちらを先にしろ」と命じられる。患者が死ぬと、「覚えていろ」と悪態をついて出て行く。それでもポールは告白する。「治安が悪いので医者も看護婦もよそへ逃げた。ボクはここで生まれ育ち、家族もここにいるのでよそへ行くことは考えない」。
小児伝染病棟では1室に10人ほどの重症患者が入院していて、1本の酸素ボンベから電線のようにチュ―ブを張り巡らせて子供たちに酸素を供給していた。1人の子が息を引き取る寸前だった。
   「この子はどうしたのか?」とルーベンが訊いた。
   「臨終のところだ」と私が答えると、ルーベンは狂ったようになって、同室にいた女医と看護婦に大声で注意を呼びかけた。    「この子が死にそうだぁっ!」 すると看護婦が振りかえって冷たく答えた。
   「分かってます」。
   もう1人の子も重態で2人はそちらに掛かり切っていた。多くの子はハシカに合併した肺炎で入院していた。その日、副知事アラノ・マルディサ氏(42才)が8人のガンマンに襲われて死亡。その晩、近所で銃声があったのは誘拐されそうになった娘を助ける為、銃を撃った父親の仕業だった。「ホロの産業は武器の製造」と言われるほど銃刀を作っており、男子は短刀とピストルを常時携行する。争いの元は第1に仇討ちで、人前で恥をかかされたとか、交通事故で親族が殺されたとかを根に持って復讐する。第2は略奪婚で、結納が払えない男は好きな娘を誘拐する習慣がある。姦通も怨恨の元になる。それで女性を巡る男たちの私闘が絶えない。
   海賊をなりわいにする部族もある。スルー州バラギニ島を根拠とする人々はボルネオの銀行を襲ったり、観光客を誘拐したり、マレーシアの海軍と海戦をやらかしたりする。スルーとホロとは同義語で、スルーとは川を意味する。台風がなくて常に川のように静かな海なのでその名がある。16世紀スペインが攻めてきた時、ミンダナオ南部からボルネオにかけてスルー・スルタン王国があった。王様と貴族は現在のイエメン共和国ハダラマウト県出身のイスラム教指導者の末裔である。20世紀になって米国はこの地を占領しようとして何度も攻撃をしかけたが、イスラム教徒は屈服しなかった。第2次大戦中ここに進駐した日本軍は音もなく忍び寄って襲ってくる島民のゲリラに苦戦を強いられた。
   フィリピン独立後、中央政府の差別政策を嫌ったイスラム教徒は抵抗を続け、1974年には政府軍との全面戦争に突入した。そのためにホロ町は焼け野原となり、数万人の住民が殺されたと言う。私の行動はモハメッドが付き添ったと言えども、昼間町内にとどまった。丘の上の民族博物館には絶世の美女と謳われた王女タルハタの写真があった。見所と言ったら、そんなところである。
   「家族会議の結果、アランに骨髄移植を受けさせることにした」とモハメッドが言いに来た。「その前にゴメス先生の了解を得たい」と言うので、私たちはサンボアンガに急行して電話することになった。ホロからマニラに電話することが出来なかったからである。モハメッドの兄がサンボアンガで裁判所の判事をしていたので、電話を借りてマカティ・メディカル・センターに電話したら、あいにくゴメス先生はヨーロッパの学会に出かけて留守だった。「先生の了解を得られなければ日本に行けない」とモハメッドは涙ながらに私の手を握った。義理堅いイスラム教徒の心が感じ取れた。
半年後アランは死んだ。写真で、棺の前に泣き臥せっているモハメッドの姿を見て私は胸を打たれた。
   1988年3月、第1回スルー州ハンセン病対策委員会会議がホロ町にある州保健部で開かれたとき、開会の祈祷をモハメッドがした。両手を広げ、空を仰ぎ見て祈る彼の姿は印象的だった。委員長にネルサ女医、副委員長には米人ジョージ・ディオン司教が選出され、人口43万人中のハンセン病患者1,600名の治療が開始された。
私が何度かホロを訪問し、無事に夜を過ごせたのはポールのお蔭、無事に帰れたのはイスラム教徒指導者モハメッドがいたからである。ディオン司教はポールの姉マリオンの紹介だった。しかし、ハンセン病対策はうまく行かなかった。内戦状態が続いたので保健担当者は思うように活動出来なかったからだ。町内は政府軍、町を一歩出れば反乱軍の占領地域なので、患者は外にいて町内に来ないし、薬は町内にあって外へ持参出来なかった。
私はホロ出身、イスラム教徒の上院議員を訪問して協力を依頼したが、議員の返事は思わしくなかった。「ハンセン病対策より看護婦の教育に寄付してくれ」と言われた。昨年はマレーシアで誘拐された大勢の人質がホロ島に連行されて身代金支払いの交渉や、政府軍の攻撃あったりして、ハンセン病どころでなかったのだった。

▶ ほしの・くにお
   1933 年生まれ。外科医。1985年、ロータリークラブの世界社会奉仕委員長として訪比しセブのバンタヤ島の医療現場を視察した。その時、島の山中に「食事も薬 ももらえないので死んでしまう」とセブ国立らい療養所から「集団脱走」して身を隠している多数のハンセン病患者がいるという事実を知らされ、衝撃を受け る。以来10年間、笹川財団(現・日本財団)、国際ロータリークラブの協力を得て、自費で生活諸経費を負担しながらの献身的なボランティア活動を行う。北 はバタネス島から南はスルー諸島のムスリム地域まで、文字通りフィリピン国中を行脚しながら患者の割り出しと投薬治療に奔走した。1992年〜94年まで マニラ日本人会診療所に医師として勤務。現在、マカティ市でリタイアメント生活を送る。ボランティア医療の経験を題材にした短編小説に『セブの聖たち』、『魔の島クリオン島』、『マニラ・いのちの行進』(いずれも未発表)がある。千葉大学医学部卒、プロテスタント。

ナビ・マニラ第8号[Navi Manila Vol. 8]より

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