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第7回 セブ、バンタヤン島の逃亡者

フィリピン医療ボランティアの旅  1985年10月 by 星野 邦夫

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   1985年10月、国際ロータリー日本第279地区の世界社会奉仕委員長を拝命した私は、フィリピンに国際奉仕の対象を求めてひとり行脚していた。その日はマニラの友人トニー・オポーサの勧めにより、セブ最北端のバンタンヤン島を訪問することになり、セブ市内のホテルで早朝の5時半から待っていたのに、迎えのジープニーが着いたのは7時であった。迎えに来たのはトニーの息子で弁護士をしているジュニアで、車に乗ったら同行者は私1人でなく、ジュニアのガールフレンドとメード2人、それに里帰りするバンタヤン出身の学生3人であることが分かった。
   「食事したか?」とジュニアが訊いたので、「腹が減った」と正直に答えたら、卵を出して「食え」という。普通の鶏卵より大きくて殻が茶色がかっており、アヒルの卵のようであった。ゆで卵かな、と思った私は車の内壁に打ちつけて割ろうとしたら、ジュニアが、「ちょっと待て」と言って私から卵を取り上げ、手にしたスプーンで上3分の1ほどの殻を取り除いてくれた。食べようとして卵を口の方へ持って行き、ちらっと見たら、そこに異様なものを発見して仰天した。それは何と!ひなの大きなギョロ目であった。「何だっ、これは!」と叫ぶと、ジュニアは、「今まで食べたことがなかったのか? これは孵化寸前のアヒルのひなだ」と言って笑った。「こんなものは食べられない」と車外に捨てようとしたら、ジュニアが、「じゃ、ボクが食べる」と言って卵を取り上げ、うまそうに食べた。ガールフレンドもうまそうに大きい目のついたアヒルの頭にむしゃぶりついた。
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   セブ島北端のハグナヤ埠頭に着いたときはフェリーボートは既に出航して2キロほどの海上を航行していた。ジュニアが港に浮かんだボートの漕ぎ手に何やら話しかけている。「バンカを借り上げて行くことにした」と彼は私に言った。やがて20人乗りのアウトリガーのついたモーターボートがやって来たので乗船した。私の荷物はボストンバッグひとつだが、他の人たちはたくさん持っていて、まるで引越し荷物のようであった。
   沖に出たら雨が降って来た。波が荒くなり、舟が上下すると共に波しぶきが容赦なく我々を襲い、びしょ濡れになった。舟端を越えて入った海水が底に溜まり、荷物はすべて水浸しとなった。普通なら1時間で着くのに、ボートは方角を失い、3時間も彷徨した。その間、ジュニアは、「この海の深さは1万メートルもある」とか、「海中には人食いザメがいる」などと脅かすものだから、ガールフレンドは恐怖の余り青白い顔になり、ぴったり彼に抱き着いていた。
   やがて雨があがり、厚い雲間から日がさして来た。舟はバンタヤン島の近くに来ており、珊瑚礁が透けて見えるので、緑色になった海面が浜を取り巻いているのを眺めて、私はうなった。「これこそ天国!」
   バンタヤン島はセブ島北端から15キロの海上にある長径20キロ、人口5万人、漁業とコプラ生産で生計を立てる人たちの貧しい小島であった。マニラの友人で外科医のトニーの生まれ故郷だったので、「医療の遅れた土地を見てくれ」と言われて訪れた。
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   薬局を営むオポーサの従兄弟の家に泊まった。朝暗いうちからゴトゴト音がするので、何だろうと思ったら水売りであった。病院近くの深井戸から汲みあげた水を木製の箱車に載せて2キロ離れた町まで売りに行く(写真)。箱車一杯の水は日本円にして約175円。車輪は木製でタイヤもゴム輪も掛けてないから、未舗装の凸凹道を通るときゴトゴトと音を立て、水が溢れてこぼれる。夫が前を曳(ひ)いて妻が後を押す。あるいは父が曳いて息子が押し、二人一組で何台もの車が通った。
   25床の一般病棟を備え、医師4名、看護婦5名を擁する病院は驚きの種である。私はここで始めて結核性髄膜炎の子を見た。話には聞いていたが、見るのは初めてである。1960年代、千葉、茨城の田舎で私はエキリや子癇などの珍しい病気に遭っていたので、どんな患者に遭遇しても驚かない自信があったが、ここで1才前後の子が首を硬直させ、背を反らせて昏睡状態に陥っているのを見て胸が圧しひしがれる思いをした。1人の結核性髄膜炎患者の背後には100人の活動性肺結核患者がいるといわれるから、島での結核の蔓延はひどい状況と察せられた。
   その他、小児麻痺、破傷風、腸チブス、赤痢などの小児患者が入院し、病院は伝染病の宝庫と感じられた。しかも、そういう患者を収容するのは名ばかりの病院で、レントゲン機械は古いポータブル型があるだけ、心電計も全身麻酔機もない。重症患者は舟に乗せてセブ島に運ぶが、海が荒れると交通手段を失い、手遅れにしてしまう。
   私が重い心で病院を辞そうとしたとき、案内してくれた出っ歯で朴訥な青年医師パブロが何気なく言った言葉は私の胸を刺した。
   「山中にハンセン病患者が100人も隠れている!」
   私は嫌がるパブロ先生を説得して山中に案内させた。昼なお暗いジャングルの奥にゴツゴツした岩山があって、そこの洞窟に患者が隠れ住むのかと想像した私の思惑は外れた。
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   それはフィリピンの田舎なら何処にでもある平地の砂利道にバス停待合所みたいな小屋が建っていて、これが村の保健センターだった。ただ一人のスタッフである白衣を着た助産婦と話していたパブロが顔をあげて、「村の患者に無料診療をすることにした」と報告した。
   近くにあるバラック建ての廃屋のような教会へ行き、軒に下がった板を打ち鳴らすと人々が集まって来た。
   「日本から来たドクターと病院のパブロ先生が無料診療をします」と助産婦が口に手を当ててアナウンスした。パブロが座る椅子の前に小児患者を連れた女達が行列した。ほとんど風邪の患者だった。私は日本から持参したビタミン剤やトクホン、バンドエードの類を入れた段ボールの箱を開いて一人に一品宛手渡した。パブロは病人には処方箋を交付した。
   噂を聞いて大人の患者たちもやって来た。パブロが私に、「あれを見ろ」と言ったので見ると、人々の後ろに明らかにハンセン病患者とわかる老婆が立っていた。年令は70才ぐらいに見えるが、背筋が伸びているところから推測して、あるいは60とも50とも思われた。日焼けした顔の真中に「鞍鼻」と称される馬の鞍のように変形した鼻があって眉毛と睫がない。短く切った頭髪も虎刈りみたいに不規則な生え方をしていた。
   これは人類の歴史と共に古くからある病気で「らい病」と呼ばれ、「天刑病」の異名をとって恐れられたが、ハンセン博士によって病原菌が発見され、伝染病であることが分かり、以後「ハンセン病」と呼ばれるようになった。日本でも4千人ほどの患者がいて13ヶ所の療養所に収容されていた。
   私がじろじろ見るので患者は姿を消した。それからハンセン病患者は誰も現れなかった。
   診療が済んでから村の長老と一問一答した。
   「あのような患者が何故ここにいるんですか?」との私の素朴な質問に長老は度肝を抜く答をした。「彼らはセブのハンセン病療養所から脱走して来た」
   「何故ですか?」
   「療養所にいたら殺されてしまうからだ。ここにいれば生きて行くことができる」
   「何故殺されるのですか?」
   「薬がない。食料もない。あれでは生きることができない」
   「村の方々は患者が移住して来ても文句を言わないのですか?」
   「あれも神の子だ。助けを求めて来たら受け入れざるを得ない」
   そう言って長老は聖書の一節を引用した。
   「これらの、いと小さき者にせざりしことは我(キリスト)にせざりしなり」
   その数は家族も入れて100名という。村に隣接した雑木林の中に仮小屋を建て、農家の手伝いをしながらひっそりと暮らしている。ここでは鶏や豚を飼うことができるし、バナナやパパイヤもなっているから飢えることはない。
   「じゃ、患者の家を訪問しよう」と私が提案すると、パブロ先生は、「そればかりはご免蒙る」と、バイクにまたがって帰ってしまった。
   これが私がフィリピンのハンセン病に深入りするようになったきっかけである。 その日、ジュニアが私に言った。「ボクたちは結婚することに決めました」。彼にもバンタンヤン行きは人生の転機を与えたのであった。

ナビ・マニラ第7号[Navi Manila Vol. 7]より

▶ ほしの・くにお
   1933 年生まれ。外科医。1985年、ロータリークラブの世界社会奉仕委員長として訪比しセブのバンタヤ島の医療現場を視察した。その時、島の山中に「食事も薬 ももらえないので死んでしまう」とセブ国立らい療養所から「集団脱走」して身を隠している多数のハンセン病患者がいるという事実を知らされ、衝撃を受け る。以来10年間、笹川財団(現・日本財団)、国際ロータリークラブの協力を得て、自費で生活諸経費を負担しながらの献身的なボランティア活動を行う。北 はバタネス島から南はスルー諸島のムスリム地域まで、文字通りフィリピン国中を行脚しながら患者の割り出しと投薬治療に奔走した。1992年〜94年まで マニラ日本人会診療所に医師として勤務。現在、マカティ市でリタイアメント生活を送る。ボランティア医療の経験を題材にした短編小説に『セブの聖たち』、 『魔の島クリオン島』、『マニラ・いのちの行進』(いずれも未発表)がある。千葉大学医学部卒、プロテスタント。

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