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第6回 魔の島「クリオン」

フィリピン医療ボランティアの旅  1987年12月 By: 星野邦夫

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米植民政府、ハンセン病患者の収容施設をクリオン島に設立
   十年ひと昔というが、私がハンセン病対策のためにフィリピン各地を訪問したのは1980年代で、クリオン島へ行ったのは1987年のことである。そのときのことは昨日のように思い出される。天刑病と恐れられた「らい病」はハンセン博士により病原菌が発見さえれて伝染病と分かり、「ハンセン病」と呼ばれるようになって入院隔離が勧められた。20世紀初頭、アメリカ植民政府はパラワン島の北方50キロにあるクリオン島を隔離地と定めた。1906年、蒸気船でセブから365名のハンセン病患者が送り込まれたのが始まりで、1930年には収容患者8500名に増加し、ハンセン病療養所として世界的に有名になった。
   私が日本の友人に、「フィリピンでハンセン病対策に従事している」と言うと、「それじゃ、クリオン島にいるのか?」と訊かれるほど、ハンセン病とクリオン島との関係は密接になっていた。それで、私は一度は行ってみたいと念願していた。
   マニラの給食事業で知り合ったアルモンテ医師が、たまたまクリオン島ハンセン病療養所長と同級生だったことから紹介してもらい、『日本らい史』を執筆中の東大名誉教授・山本俊一先生が、「行きたい」と希望されるので、これ幸いと私と家内が同行することになった。1987年12月のことである。

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「魔の島」クリオン島をはじめて訪問
   マニラからブスアンガ島へ行くエア・リンク社の10人乗り双発プロペラ機に乗って揺られること1時間、ルバング島上空を飛び、ミンドロ海峡を越えて草原のコロン空港に着いた。そこから、マニラから来たフェリーボートに乗り、絶壁に囲まれたコロン島を左手に眺めながら1時間ほど行くと、目指すクリオン島に着く。
   緑で覆われた、なだらかな丘陵が続く島には所々赤い屋根の家が点在し、入り江の奥には教会さえ建っていて懐かしささえ感じられた。「魔の島」と恐れられ、島送りと決まったハンセン病患者が乗船前に隠れたり、乗船してから身投げしたりしたと伝えられる雰囲気はなかった。
   フェリーが波止場に着くより早く、Tシャツ、短パン姿のポーターが乗り込んで来て荷物を運ぼうとする。1人の痩せた若者が私たちのバッグに手を掛けたので、「我々は所長の客だ」と言うと、「こっちだ、ついて来い」と3個のボストンバッグを担いでスタスタと歩き出した。
   波止場に隣接して北向きの広場があり、正面に役場、右手に公会堂が建てられており、私たちは左手にある木造2階建ての簡素な所長官舎に案内された。
   所長ポーロ・エバンへリスタ氏(45才)は中肉中背、西郷隆盛に似た顔付きをしていた。「アルモンテ医師から日本人客が行くと知らせがあったが、まさか今日来るとは思わなかった」と突然の来訪に驚くとともに、私たちが彼と同じプロテスタント信徒と知って嬉しがった。

患者の自由外出を禁止し男女を隔離、1940年に暴動発生
   彼は自己紹介を兼ねて島の歴史を語った。
   「父は戦前に牧師としてクリオン島に赴任し、アメリカ人宣教師の助手をしていた。島にはマラリアが蔓延し、患者の半数がマラリアで死亡した。しかし、彼らには行動の自由があり、魚を獲ってきて1キロ4センタボで買い上げてもらったり、ウースター広場の運動会、映画会などを楽しんだりした」。
   たまたま、見学に訪れたアメリカの学者が、「無規律だ!」と酷評したところから、1935年、ときの総督フランク・マーフィーが改善策を打ち出して、「患者の人権抑圧になっても仕方がないから、規律を厳格にし、隔離を徹底すべし」と指示したので、その後は患者の外出と家族の見舞いを禁止し、男女を隔離した。
   1940年、暴動が生じ、男性患者が塀を乗り越えて女性病棟へ闖(ちん)入し、女性患者を拉致して山中に逃げ込むという事件が起こった。
   ところが1942年、大戦のためにアメリカ人が引き揚げると規律は再び緩み、山中に逃亡していた男女は戻ってきて療養所の近くに住むことになった。
   ポーロの父はアメリカ人宣教師が住んでいた邸宅に移り住み、主任牧師として活動するようになった。やがてポーロはマニラの医大に進学し、伝染病院の研修を済ませてからクリオン島に戻り、所長に任じられ、若いながら名所長としてスタッフ、患者の信頼を得るようになった。

療養所でのクリスマス・パーティ

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   島は長径40キロ、南北に長い勾玉(まがたま)の形をしていて、熱帯季節林で覆われ、中央に標高200メートルほどの丘陵が続いている。北東側の入り江にハンセン病療養所、西側入り江には治った患者の集落がある。人口1万5千人、療養所入院患者500人、MDT(多薬剤療法)を受けている患者が200人いた。
   当日、クリスマス・パーティが開かれた。広い療養所の敷地内に幼稚園から大学まで学校が併設されていて、その日は大学の内庭でパーティがあった。スタッフ、患者、島民が500人ほど集まり、2階建て校舎の陰にムシロを敷いて座った。向き合うように設えられたステージ上で、16名の視力障害のある患者がブラスバンドを編成して、陽気な行進曲を演奏する。その左手にテントを張って来賓席が作られており、私たちはそこに招かれた。
   庭の中央にはクリスマス・ツリーが飾られ、星の代わりに薬ビンが吊るされてあた。ダンスなど出し物は観客とステージの中間のスペースで行われた。
   午後4時、全員起立して国歌斉唱と開会の祈祷が行われた。司会は額の広いヒラリオン・ギア氏で8才のとき発病してクリオン島に連れて来られ、治った後、マニラの大学に進み、修士課程を終えて島に戻り、大学の先生になった。両手に神経麻痺が残っていた。療養所と学校で働く人々はほとんど島育ちで、外へ出て教育を受けた後、戻って来た人々である。
   まず25名の学童のダンスがあった。この子たちが胸に付けている名札はMDT(多薬剤療法)を受けている患者であることを示していた。
   ラテン音楽『情熱の花』のリズムに乗って踊り出した2人の美人が全観衆を熱狂の渦に巻き込んだ。「あれはオカマです」と所長が言った。
   それから漂海民バジャウ族のカップルが日本の安木節に似た曲でドジョウすくいに似た滑稽な踊りを披露して満場を笑わせた。屈託ない人々を見ていると天国に遊ぶような錯覚に捕らわれた

ウッド第9代フィリピン総督、私財を投じてハンセン病研究所を設立

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   その夜、私たちは所長官舎の2階に泊めてもらい、翌日は所長の案内で施設を見て回った。丘の中腹に平屋建ての鉄筋コンクリート柱、板壁に材木の梁、トタン屋根をかぶせた病棟が幾つも建っており、そのなかで一際大きいレンガ造り2階建ての建物はレオナ—ド・ウッド研究所である。ポーロは次のように説明した。
   「レオナ—ド・ウッドはハーバード大学医学部を卒業してからアメリカ陸軍に入り、アパッチ討伐で戦功をたて、ルソン島でフィリピン独立軍と戦い、南ミンダナオのモロ州知事となって頑強に抵抗するモロ族と戦い、それからアメリカに帰って陸軍参謀総長に任命され、次いで第9代フィリピン総督になった。総督を辞めるとき私財を投じてクリオン島とセブにハンセン病研究所を建てた。医者としての良心が過去の殺戮を悔やませたのであろう」。
   ここでフィリピン人医師ホセ・ロドリゲスが研究を重ね、『小児がハンセン病に罹患しやすいこと、発病した小児の半数は自然治癒すること』を発表し、「ハンセン病が病原菌の感染によって起こるものの、発病と病気の進行は個人の抵抗力に関係し、遺伝子の関与があることを証した」と言う。ウッドは医者で台湾総督になった後藤新平に比ぶべくもないが、毀誉褒貶(きよほうへん)の甚だしい人物である。
   病棟の1つではMDT(多薬剤療法)の投薬が行われていた。看護婦が患者に薬を手渡すと、見ている前でそれを飲み下す。患者は入院している人ばかりでなく、外からもやって来る。病状に応じて軽いものは2種類を6ヶ月、重いものは3種類を2年間、毎日飲まなければならない。それで民間の支援を受けて患者が中途で薬を止めないように給食していた。
   丘の上に老人ホームがあった。病菌が死滅して病気は治ったけれど、身体障害を残した老人たちが収容されていた。これは宗教団体によって運営されていた。
   その上の雑木林のなかには暴動のとき逃げた人たちが許されて、戻って来て住んだ集落があった。紫紅色に花咲くブーゲンビリアの枝の間から紺碧の海が見渡せた。浜辺には運動場も見える。そこは昔、墓地だったところである。患者がバタバタと死んで行ったとき埋葬する場所を探すのに難儀したであろうが、今は死ぬ人が少ないので、墓地は島の奥に移転していた。
   クリオン開所当時は、軍艦がフィリピン各地をまわり、ハンセン病と疑われる人たちを収容していった。島の周囲が浅瀬のため、軍艦は沖合いに停泊し、クリオン島までは小さな船が使われた。ここは最初の患者が収容のために小型の船で連れてこられた地点。クリオンの隔離と収容の歴史を忘れずまた過去を踏まえながらも、一地方自治体として歩みだしたクリオンの未来をたたえるためにと百周年記念碑が建てられた。 写真説明は「モグネット」http://www.mognet.org/ より転載Copyright (c) 2006 Hoshino Nao

昔語りになった「魔の島クリオン」、手付かずの自然が残る平和で美しい島

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   何も知らない子供たちが遊んでいた。「魔の島クリオン」は昔語りになった。
   スノーケルを付けて海中を覗くと、黒い絨毯が動いているのが見えた。目を凝らして良く見ると、それは魚の群だった。クリオン島には手付かずの自然が残り、うっそうと茂るフタバガキ科の常緑樹の森にはオウムをはじめ、色鮮やかな野鳥が飛び交っていた。
   帰途、所長の好意で療養所が所有するバンカに乗って2時間、飛行場のあるブスアンガ島まで送ってもらった。波が船縁を越えて浸入し、水しぶきも派手に当たったので全身びしょ濡れになり、ボストン・バッグの底に海水が溜まった。マニラに着いたとき濡れネズミのようだったので、出迎えに来たアルモンテ医師が、「洗礼を受けたのか?」と笑ったほどだった。
   当時のハンセン病登録患者はフィリピン全国で2万人いたが、諸外国の支援を得てMDT治療を励行した結果、1993年には政府により、『ハンセン病制圧』が宣言されるに至った。私はこの事業に参画出来たことを一生の誇りにしている。

ナビ・マニラ第6号[Navi Manila Vol. 6]より

▶ ほしの・くにお
   1933 年生まれ。外科医。1985年、ロータリークラブの世界社会奉仕委員長として訪比しセブのバンタヤ島の医療現場を視察した。その時、島の山中に「食事も薬 ももらえないので死んでしまう」とセブ国立らい療養所から「集団脱走」して身を隠している多数のハンセン病患者がいるという事実を知らされ、衝撃を受け る。以来10年間、笹川財団(現・日本財団)、国際ロータリークラブの協力を得て、自費で生活諸経費を負担しながらの献身的なボランティア活動を行う。北 はバタネス島から南はスルー諸島のムスリム地域まで、文字通りフィリピン国中を行脚しながら患者の割り出しと投薬治療に奔走した。1992年〜94年まで マニラ日本人会診療所に医師として勤務。現在、マカティ市でリタイアメント生活を送る。ボランティア医療の経験を題材にした短編小説に『セブの聖たち』、 『魔の島クリオン島』、『マニラ・いのちの行進』(いずれも未発表)がある。千葉大学医学部卒、プロテスタント。

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