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第3回 バギオの日本人

フィリピン医療ボランティアの旅1986年7月 By: 星野邦夫

第3回バギオの日本人
   私がバギオへ行くようになったのは、1986年7月セブ市に移住してからである。滝田年男氏(33才静岡県出身)がバギオに近いベンゲット州ラ・トリニダッド町で農業技術指導をしており、農民の診療に来て欲しいと頼まれた。彼はNGO団体「オイスカ」に所属し、州知事との契約をもとに公有地2ヘクタールを使用して地元の青年たちに農業技術を教える研修センターを運営するとともに、農業協同組合経営の手伝いもしていた。
   滝田氏がバギオへ赴任するようになったのはシスター海野(うんの)常世さん(74歳)の懇請による。彼女は神戸女学院大学の英語の教授をしていたが、1970年、ローマ法王のフィリピン訪問に伴ってマニラを訪れ、貧民の生活を目のあたりにして召命を感じ、2年後に自ら望んでマニラに赴任した。たまたまバギオを旅行したとき、日系人が大勢住んでいて、しかも困窮のうちに暮らしているのを見聞し、自分の使命はこの人たちを助けることにあると覚った。
   私は滝田氏の紹介でバギオ聖フランシスコ修道院にシスター海野を訪ね、修道院に泊まることを許可された。そこから滝田氏の運転する自動車で6キロ離れた村へ診療に出掛けた。村役場がある中心部は谷間の平地であるが、協同組合へ行くには段々畑のある急な山坂を登って行かねばならなかった。馬の背のような土地のあちこちに農家が点在していた。なかには山の斜面に建てられた家もあった。自動車が通れる未舗装の道路に面して木造2階建ての組合事務所があり、1階は倉庫、2階には事務室と滝田氏の居間兼寝室があった。週1回農民から集めた野菜を中型トラックに積んでマニラまで運び、日本料理店や住宅街のガレージ・セールで売りさばくのは滝田氏の仕事であった。
   私は事務室で農民の診療を行った。マニラから運んで来た薬剤を渡し、ついでに日本から送られた中古衣料を配布した。患者のなかには日系人もいたが、地元のイゴロット族の人もいて、昔ながらの、顔にイレズミした老女がいた。
   患者の1人、日系人の加藤タツさん(56才)から身の上話を聞いた。「父親の関蔵は1904年、ベンゲット道路工事に従事するために渡って来たが、道路完成後もバギオに留まり、イゴロット族の娘、つまりわたしの母親と結婚した。第2次世界大戦で父は自決し、わたしたちは山中に隠れ住んでいたが、やがて村に戻り、農家の手伝いをして生計を立てた。働き者だったのを見込まれてイゴロット族と結婚した。最初は小作農だったが、少しづつ土地を買って自作農になった。11人の子供のうち8人が育った。父が生前繰り返し教えてくれた『正直』を、わたしは自分の子供たちにも教えている」
   ジャニー長岡氏(54才)は、「父親に率いられてバギオの町から山中に避難するとき、米軍の砲弾が破裂して、ぼくの目の前で一家が全滅した。生き残ったぼくは日系人であることを隠して働き、タクシー運転手になって妻子を養えるようになった。今でも惨事を思い出して呆然とすることがある」と話した。日系人の話は涙なしには聞けなかった。
   夜は修道院で8人ほどのシスターと一緒に夕飯をいただいた。シスター海野は副院長の立場のようであった。彼女の食事は他の人と異なり、お粥に野菜を主としていた。彼女は温容を保ちながら、「胃潰瘍があります」と弁解し、食後、私のハリ灸の治療を受けた。
   翌年、私は修道院の礼拝堂で行われた奨学生の会合に出席した。シスター海野が神戸女学院の教え子たちに依頼して寄付して貰った資金をもとに、貧しくて小学校へも行けない日系人の子弟に奨学金を贈った。のちに日本のロータリークラブやライオンズクラブの協力を得るようになり、日系人ばかりでなく、フィリピン人にも対象を増やし、今では年間240名の学生・生徒に400万円の奨学金を与えるようになった。
   会場には小学生から大学生まで大勢の子供たちが集まっていた。シスターによれば、学業を全うして医師や弁護士になった人もいるし、アメリカの士官学校に留学して軍の中枢で働く人もいるとのことであった。日系人社会では長老格の弁護士の浜田さんという老人が挨拶して、「正直をモットーにして人生を送りなさい」と教えた。日系人の家庭では、「正直」とか、「誠実」とか書いた紙を張り出しているという。道路工事に出稼ぎに来た日本人労務者がこのような道徳訓を家族に示したとは驚くべきことである。明治時代の日本の家庭の在り方がうかがわれた。
   その前にシスター海野は日系人を探し出すため、細いからだを駆使して山中を旅行した。ときには人がやっと通れるような山坂を上り降りして、隠れていた家族を探し、夜は見つかった家に泊めて貰って語り明かしたという。そして北ルソンに住む日系人1500人を探し当て、支援の手を差し伸べた。
   ベンゲット道路の工事でなくなった日本人の慰霊も行った。1903年から1905年までの間に2300名の日本人が働き、そのうち700名がいのちを落とした。シスターは河原に仮埋葬されていた死骸を集めて納骨堂に安置し、道路の終点の、見晴らしの良い場所に記念碑を建て、記念誌を発行して人々の顕彰を行った。シスターの働きが日本で報道され、バギオの日系人を招待して日本の親族に会わせる運動が起こり、何人かの人たちが日本に来て涙の対面をした。この模様はテレビで報道されて多くの人たちの涙を誘った。
   1989年10月、私はシスターを訪ねた。バギオで内科学会があり、私は講演を依頼されて行ったからである。そのときは他の医者とともに教員研修所の寮に泊めてもらった。私は講演が終わってから、シスター海野がいると聞い た、丘の上にある宿泊施設を兼ねた北ルソン比日友好協会(アボン)を訪ねた。シスターは車庫で日本から届いた中古衣料の選別をしており、日本から手伝いに来た若いシスターや、協会の日系2世の女性が手伝っていた。シスターは貧血気味で元気がなかった。見ると足が大根のように白く、腫れて太くなっていた。「具合はどうですか」と私が訊くと、シスターは驚くべきことを語った。
   「これまでわたしは黙っていましたが、5年前に胃がんを発見され、それも手遅れと診断されました。自分なりに青野菜の食事療法をとっていましたので、思ったより長くもちました。でも、もうお終いです。食事が入らなくなりました」
   彼女が、「足がだるい」というので、ハリ治療をして差し上げた。それが最後だった。 2ヶ月後になくなったと知らせが入ったのである。 (年齢は1986年当時)

ナビ・マニラ第3号[Navi Manila Vol. 3]より

ほしの・くにお

   1933 年生まれ。外科医。1985年、ロータリークラブの世界社会奉仕委員長として訪比しセブのバンタヤ島の医療現場を視察した。その時、島の山中に「食事も薬 ももらえないので死んでしまう」とセブ国立らい療養所から「集団脱走」して身を隠している多数のハンセン病患者がいるという事実を知らされ、衝撃を受け る。以来10年間、笹川財団(現・日本財団)、国際ロータリークラブの協力を得て、自費で生活諸経費を負担しながらの献身的なボランティア活動を行う。北 はバタネス島から南はスルー諸島のムスリム地域まで、文字通りフィリピン国中を行脚しながら患者の割り出しと投薬治療に奔走した。1992年〜94年まで マニラ日本人会診療所に医師として勤務。現在、マカティ市でリタイアメント生活を送る。ボランティア医療の経験を題材にした短編小説に『セブの聖たち』、 『魔の島クリオン島』、『マニラ・いのちの行進』(いずれも未発表)がある。千葉大学医学部卒、プロテスタント。

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