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第2回 バシラン島

フィリピン医療ボランティアの旅1988年4月28日 By: 星野邦夫

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   2002年8月20日付の日本語日刊紙「マニラ新聞」の第1面に「海の楽園 客戻らず」と大きい見出しが出た。内容は2001年5月、イスラム過激派アブサヤフの襲撃を受けて、米人3人、フィリピン人17人を拉致されたパラワン州の高級リゾート「ドスパルマス・ホテル」が、その後営業不振に陥ったと。人質をさらったアブサヤフ一味はミンダナオ南西端の小島バシランに隠れたが、比米合同演習軍の攻撃を受けて島外へ逃げたと伝えられる。その際、人質の1人米人牧師マーチン・バーンハム氏が射殺され、妻のグレーシアさんは救出された。
私がバシラン島を最初に訪問したのは1988年4月28日である。それまでサンボアンガ市に何回か滞在しており、その都度、沖合い25キロに優美な姿を横たえるバシラン島へ行ってみたいと憧れに似た思いを抱いていた。
   午前10時発の定期船に1人で乗ったら、私と同年輩のドルフという男と知り合いになった。それで楽しい旅となった。彼はバシラン島に広大な農場を持ち、バシラン・ロータリー・クラブの会員でもあった。以下、彼から聞いた話。
    2年前、ドルフがジープに乗って島都イサべラ郊外を走っていたら、後方から2台のオートバイが追い付いて来てジープを停めさせ、ピストルを持った4人の男がドルフを囲んで脅し、「お前を人質にとる」と宣告した。彼らはドルフが何者であるか知っていて、身代金目当ての計画的な犯行であることが直ぐ分かった。
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   誘拐者は彼をオートバイに同乗させて人里離れた場所に連行してから、手足を縛って木蔭に寝かせた。4人のうち2人はイスラム教徒、2人はクリスチャンであった。主犯格の男がドルフの家族との交渉に町へ出掛け、その代わりに他の男たちが加わり、都合6人の男たちがドルフの見張りをした。
   その晩は野宿し、次の日にドルフが、「逃げないから、縄を解いてくれ」と申し出ると、「それならば」と解いてくれた。その日は1日森の中に隠れてじっとしていた。それから1ヶ所に留まらず、あっちこっちと連れまわされた。民家には近付かず、人目を避けていた。その様子から彼らはイスラム教徒反乱軍ではなく、犯罪者一味であることが察せられた。
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   9日後ドルフは解放された。家族が身代金を払ったからである。犯人がどんな人だったかとか、身代金が幾らだったかなどを誰にも話さないことを約束させられた。ドルフは住所を対岸のサンボアンガ市に移し、ロータリークラブは退会した。しかし、仕事の関係でバシラン島にはしょっちゅう行くと言う。私が、「ロータリー会員で、ハンセン病対策のために訪問する」と言ったので、彼は案内役を買って出てくれた。
   船は波ひとつない静かな海面を滑るように進み、1時間ほどでバシラン島に着いた。見るとマングローブの林が海中に広がっており、どこから海で、どこから陸か、見分けがつかない。海上民族バジャオ族の高床式住居が遠浅を利用して沖の方まで建ち並んでいるので、一層海と陸との境界が分からなかった。やがて藍色にくすむ丘陵の麓に赤いトタン屋根の教会や、ネズミ色のビルが見え出した。島都で、州庁所在地のイサべラ町(人口5万人)である。島の北西部に位置する。
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   船が波止場に近付くと、どこからともなく子供たちが何艘ものカヌ-を漕ぎ出してきて、船の周囲を取り囲み、声高にわめき出した。ドルフが、「乗客にコインを投げろと言っている」と説明した。誰かが白く光るコインを海中に投げ入れた。すると1人の子供がカヌーから水中に飛び込み、アッという間にコインを拾って浮き上がり、「拾ったぞ」とばかり手で見せると、急いで口のなかにしまいこんだ。別の子は落ちてくるコインを、カエルのように躍りあがって口で受けた。そのあとバランスをくずして水中に落ちたので乗客がどっと笑った。なかには妙技に拍手するものもいたし、続いてコインを投げるものもいた。 海水は透き通って底まで見えた。投下されたコインが日の光を反射して白銀色に光りながら、水中をひらひらと、ゆっくり沈んで行くのが見える。それをサッと捕らえる子供の小さい手も見えた。
   上陸したところがイサべラ町である。1986年に大火があり、市場と100軒ほどの民家が焼けた。原因は地元のヤカン族のトグン家とムアリ家の紛争であった。両家とも軍閥として知られた家柄で、私兵を数十名も養っていた。両家は前から仇敵関係にあり、どちらの当主か分からないが、マニラで暗殺され、それに対するリベンジで紛争が加速され、大火を引き起こした。
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   ヤカン族はバシラン島にのみに見られるマレー系のイスラム教徒で、背が高く、肌は比較的白く、からだにぴったり合った、色彩豊かな木綿の長袖シャツと長ズボンをつけており、祭りや婚礼では顔全体を白い色素で点状の模様を描く習慣を持つ。古くから高い文化を誇り、鉄器を使用していた。バシランという地名は、「鉄の道」を意味し、彼らの鉄器文化をさしていた。男たちはすべて戦士で、常に武器を携帯し、部族間の争いや、家族間の怨恨を武力で解決していた。
   1960年代、マルコス政権により一般人の武器保有が禁じられ、現代版「刀狩」が指令されたとき、イスラム教徒は昔からの伝統に固執して武器の引渡しを拒否、政府軍と戦争になった。イスラム教徒はホロ島の勇猛なタオスグ族を中心としてMNLF(モロ民族解放戦線)を組織して戦った。これに対して政府軍は規律がゆるみ、脱走兵が犯罪集団を結成したり、軍籍にありながら上官の命令に従わず、悪事に加担したり、イスラム教徒に内通したりした。そのために混乱はいつまで経っても解決せず、バシラン島ではイサべラ、ラミタン、トブランの町なかだけ治安が良く、町外は無法地帯となっていた。
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   イサべラ町内で郵便物が届かない不便を解消しようと、ロータリークラブが金を出し、街路の標識をつけようとしたら、通りの名前がなかったり、家の地番がなかったところが見つかったという。
   ドルフと私は狭い街路を通って町の中心にある小さい食堂で昼食をとった。その間にロータリークラブの会長マヌエル・パガユカン(PNB銀行支店長) と国際奉仕委員長のジョー・トンボック(中国系ビジネスマン) がやって来て会話の仲間に入った。話題はハンセン病対策に及び、これから実施される保健所スタッフの教育や、患者の発見に現地のロータリークラブが協力することに決まった。
   町はずれの、周りを森で囲まれた閑静な地にバシラン州保健部と州立病院の建物が並んでいた(バシラン島は東西60キロ、人口24万人で1つの州になっていた)。
   スペイン系を思わせる40才代の、メガネをかけた色白の太った女性が州保健部長と州立病院長を兼ねていた。彼女は我々4人を前にして雄弁をふるった。ハンセン病専門家として12年間尽力してきたと前置きし、バシランに赴任する前はホロ島にあるスル国立ハンセン病療養所長として対策の改善に貢献したという。それで私が思い出したのは前回ホロへ行ったとき、療養所の前の所長が週2回しか来ず、あとは家族がいるサンボアンガ市内で過ごしていたということである。私はそれには言及せず、黙ってニヤニヤしていた。
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   彼女の説明では、2年前バシラン州保健部長に任命されてから、危険地域にもかかわらず、週5日も精勤し、ハンセン病登録患者を60名から110名に増やした。ただし、治療はしていなかった。
   私がこの度のハンセン病対策の趣旨を説明すると、「それは未だ聞いていない。保健省に問い合わせてみよう」と言った。1ヶ月前にはマニラの保健省長官通達として全国の州保健部長に連絡が行っているはずであった。田舎のことなので、マニラからの連絡は時間がかかるのだろうと思った。 私が、「バシラン州の保健担当者は何名いますか?」と訊いた。この人たちにハンセン病対策の講習会を開き、講師と受講者に手当てを払うのが私の任務であった。彼女は部下を呼んで人数を調べていたが、結論が出ず、「来週、サンボアンガの保健局で会議があるから、それまでに調べて人数を書いて行く」と答えた。
   ドルフが私に訊いた。「君、どうする?」「ボクは用事が済んだので、サンボアンガに戻る」と言うと、「それが良い。長居は無用。午後4時に船が出る。オレもその船で帰るから一緒に帰ろう」と彼が勧めた。
   ドルフは自分の用を足しに行き、私はマヌエル会長の案内で郊外の農場やパーム椰子の実から油を取る工場などを見させてもらい、再会を約して午後の船に乗った。どこの州へ行っても、保健部長は自分の部下の数が分からず、指を折って、「あいつに、こいつ、誰と彼と」と数えた末、「明日までに調べておく」というのが常であった。それで、1晩は宿泊する覚悟をしていた。バシラン島もその伝かと思い、マヌエル会長に頼んで民間病院に泊まる予約をしていたが、この部長では明日どころか、1週間もかかるというので、泊まる意味がない。それなら日帰りして安全なサンボアンガに戻った方が得策と判断した。
   同年9月、私は再びバシラン島を訪れた。マヌエル会長に講習会の資金を届けるためであった。そのとき会った州立病院の診療部長ドミンゴ・デイリト医師から次のような恐るべき報告を聞いた。「バスが襲われて17人のクリスチャンが誘拐され、そのうち5名の女性たちが繰り返し強姦された。解放されたあと、彼女たちは病院に連れて来られ、診察を受けたが、女性3名は精神障害を起こしていた。一番若い人は17才だった」。
   マニラに戻り、在留邦人の長老・大澤清氏に話したら、「彼女らも人間だ。暴行を受けたのがよほどのショックだったのだろう。わたしは19才でバシラン島に渡り、農園のボーイをした。当時は自然が豊かで平和な島であった。もう一度行きたいと願っているが、治安が悪いと聞いて行けないでいる。あなたはよく行ってきた」としんみり語った。 (本文中の写真・橋本信彦)

編集: 「ナビ・デ・セブ」 Navi de Cebu
ナビ・マニラ第2号[Navi Manila Vol. 2]より 

▶ ほしの・くにお

   1933 年生まれ。外科医。1985年、ロータリークラブの世界社会奉仕委員長として訪比しセブのバンタヤ島の医療現場を視察した。その時、島の山中に「食事も薬 ももらえないので死んでしまう」とセブ国立らい療養所から「集団脱走」して身を隠している多数のハンセン病患者がいるという事実を知らされ、衝撃を受け る。以来10年間、笹川財団(現・日本財団)、国際ロータリークラブの協力を得て、自費で生活諸経費を負担しながらの献身的なボランティア活動を行う。北 はバタネス島から南はスルー諸島のムスリム地域まで、文字通りフィリピン国中を行脚しながら患者の割り出しと投薬治療に奔走した。1992年〜94年まで マニラ日本人会診療所に医師として勤務。現在、マカティ市でリタイアメント生活を送る。ボランティア医療の経験を題材にした短編小説に『セブの聖たち』、 『魔の島クリオン島』、『マニラ・いのちの行進』(いずれも未発表)がある。千葉大学医学部卒、プロテスタント。
 

バシランに生きた日本人の話

明治生まれの大澤清さん(1906-2002)は大正14年(1925年)、19歳のとき「ヤシのある南の国」に憧れひとりでフィリピン行きの移民船「丹後丸」に乗った。群馬の豪農の家に生まれた大澤少年は子供のころから窮屈と堅苦しさが嫌いで、知らない新天地に行ってみることを夢見ていた。
東京湾を出た「自由労働移民」である大澤少年の乗った移民船は、神戸、長崎、香港を経由してマニラに着いた。マニラでは長崎で知り合った、ロシア革命を逃れたロシア人親子にかき氷を振る舞うなどした。数日後、船は次の寄港地サンボアンガの港に入った。日本人移民の最終の目的地はダバオで、そこの麻山で働くことになっていた。しかし大澤少年は途中寄港したサンボアンガの町が気に入り、そのまま居残ってしまった。海の突堤からはるか彼方にバシラン島が見えていた。1カ月余りして、旅館代を使い果たした大澤少年はバシラン島に渡り、ロビンソンという名のアメリカ人が経営するゴム農園で働くことになる。ラミタン町からさらに山に入った所に農園はあった。大澤さんは著書『フィリピンの一日本人から』(新潮社)の中で、当時の島の様子やそこに住んでいた日本人のことなどを語っている。
大澤少年がサンボアンガに上陸した1925年(大正14年)には、同地には既に日本人会があった。会長の岸さんと副会長の前原さんは写真屋、会計の田口さんは家具屋だった。沖縄出身の真珠貝を採集している漁民もたくさんいた。道具も仕掛けも持たず、ただ深く潜って真珠を探した。町中には旭バザーなど何軒かの雑貨屋があったが、日本人は正直、誠実、勤勉ということで大いにはやっていた。
その後住み込みで働くことになるバシラン島のゴム園では地元のヤカン族がたくさんいた。ヤカンはムスリムではあるが性格は温和で、親切でいい人たちだった。大澤少年は、「ハポン、ハポン(日本人)」と呼んで遊びにやって来るヤカンの若者を相手に柔道の真似事をした。顔立ちが日本人に似て色が黒いヤカンは顔が合うとにっと笑う、なかなかの愛嬌者が多かった。在留邦人の中には、ヤカンの女性と所帯をもった人もいた。ドイツ人経営のヤシ農園で働く広島出身の河野さんの奥さんもヤカンで、ささやかなモンゴ店(小豆かき氷)をやっていた。大澤少年はここの縁台に腰掛けてよく小豆氷を食べた。ヤカンの奥さんは言葉は通じないがいつも笑顔で迎えてくれ、親戚にでも遊びに行くような気分だった。このバシラン島には大元さんと河野さん以外にも日本人がいた。彼らはラミタン町からさらに山奥の開拓地に住む、明治の末期に移民でやってきてバシランに流れ着いた日本人たちだった。ある時、7、8人が開拓地に酒を持ち寄り酒宴を開いたことがあった。みんな一様に日本と、日本人女性へのあこがれと郷愁が強く、20年前の日露戦争の勝利話などするうち、望郷の念にかられ涙を流す者もいた。大澤少年はそれからしばらくして山を下りマニラ行きの船に乗った。
大澤さんは戦前、戦中、戦後の63年間にわたりフィリピンに在住し、在留邦人社会の中心的存在として活躍した。バシラン島で暮らしたのは短い期間であったが、大澤さんにとってヤカンの人たちとの交流はいちばん忘れがたい思い出となった。大澤さんは本を書いた当時、バシラン時代からすでに50年経っていたが、ときどき、ヤカンの人たちのやさしい笑顔を思い出すことがあったという。

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