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第19回 ドゥマガトゥ族に会う 1986年1月

フィリピン医療ボランティアの旅 1986年1月 The Dumagat Tribal Folk of Bulacan - 1986  By: 星野邦夫 Dr. Kunio Hoshino

ドマガツ族母子

フィリピンの先住民族は総称してネグリト族と呼ばれる。大陸と地続きだった時代に肌の黒い、髪の毛が縮れた小柄な、彼らの先祖が来て住みついたようだ。フィリピンが小さな島々に分かれてから、船を建造できるマレー人が渡航して来たので、先住民たるネグリト族は山の中に追いやられた。中部ルソンの、主としてブラカン州の山中に入った人たちがドゥマガトゥ族である。ピナツボ噴火のために移住せざるを得なくなった種族はアエタ族と呼ばれる。ミンドロ島にもいると言われるし、ミンダナオ島では石器時代の生活を保っている人たちが発見されたこともあった。

私の友人の父アレホ・サントスは第2次大戦前はマニラの巡査であったが、バターンでの日本軍の行為を聞くに及び、職を捨てて抗日ゲリラの群れに身を投じた。彼はリーダーシップに富み、勇敢だったので、戦争が終わるころはブラカン州ゲリラ隊の隊長になり、山中でドゥマガトゥ族と親しくなった。
   当時のドゥマガトゥ族は未開の生活をしていた。男はふんどし一丁、女は腰巻だけのトップレス姿で、あちらに1家族、こちらに1家族と家族単位の生活であった。耕作も家畜飼育もせず、男は槍で野豚をとり、女は木の実を採集していた。
  彼らが集団行動をとるのは首狩と結婚式だけである。毎年3月、太陽が真上に来て夏となり、火焔樹の真っ赤な花が咲くと男たちは腕がなり、じっとしていられなくなって姻戚関係のある男たちでかたり合わせ、毒矢と山刀を持って首狩に出掛ける。村里近くへ行ってマレー系の男が来るのを待ち伏せする。たまたま不注意な男がやって来ると、後方から毒矢を射かけ、倒れたら首をはねる。独身の男は首を持って帰り、恋人に見せて、いかに自分が勇敢であるかアピールする。
   結婚式では花嫁と花婿は鬼ごっこをする。花嫁が悲鳴をあげて逃げると花婿は追いかけて捕まえる。その手を振り切って花嫁がまた逃げる。何度か繰り返した挙句、2人は寄り添って長老の前に座り、ヤシ殻の皿に汲まれた水を飲む。これで結婚式は終わりである。新婚の2人は山へ行き、数日を過ごして来る。
彼らは立ち木を利用して小屋を作って住み、そこで幾日か狩猟採集生活をすると、別なところへ行って住む。定住はしない。首狩はもう止めた。

ドマガツ子供

  1986年1月、私はサントス家のドゥマガトゥ族訪問の旅に同行した。父のアレホ・サントスは戦後国防省長官に任じられたが、忙しい政務の間を縫ってドゥマガトゥ族との友情を保っていた。息子の レネ・サントス医師の時代になると、毎年1月の第1日曜日に訪問することになった。
   貸し切りバスはマニラから3時間のドライブの末、ブラカン州山奥の水力発電所に着いた。ここが年1回サントス家とドゥマガトゥ族が交歓する約束の場所である。文字も数字もない彼らがどうしてこの日が分かるかと不審に思った私にレネ医師が説明してくれた。
「そのうちに行くから集まってくれ」と使いを出して触れまわると、200キロぐらいの範囲の山中から移動して発電所まで来て、その周辺で生活して待っている。そこは人里に近くて獲物が少ないから、発電所の職員が食料を提供してサントス一家が来るまで 待たせる。なかには2週間も早く到着する家族がいるかと思うと、サントス一行が帰ってしまってから辿り着く家族もいる。

   異様な人たちだった。男女とも髪の毛が逆立ち、いわゆる天然のアフロヘアーである。そして大きい黒い目をギョロつかせている。裸足の足を見ると、岩や木を掴むのに適しているかのように指が開いている。しかも足の幅が広くて山坂を駆けるのに向いていた。着物はつけていたが、サントス家から貰った古着らしく、汚れきっていた。普段は裸でいるそうである。レネによれば、約200家族、800人ほど来ているという。その半数は子どもで、なかには布に包まれ、母親に抱かれた赤ちゃんもいた。風呂敷から首を出した赤ちゃんが母親のおっぱいを吸っている光景も見られた。男も女もボロ(山刀)をさげていた。
 発電所のダム堤の中央で集会が始まった。サントス一家をドゥマガトゥ族が十重二十重に取り巻き、大柄で肥満体のレネの演説を聞いた。タガログ語が分かるようであった。私にもしゃべれと言うので、壇にあがり、「ボクは日本から来ました。フィリピンは暑い」と言ったら、笑った。彼らにとって1月は冬で、寒くてたまらぬ時期である。それなのに私が暑いと言ったものだから、可笑しかったに違いない。
 私はハリ治療を始めた。道具は良導絡の集毛針に直流電流を通すものを持参した。最初は躊躇して患者が来なかったので、中年女性をつかまえて、半強制的に治療した。彼らは見て見ぬ振りをしながら遠巻きにしていたが、やがて痛くなくて気持ちが良いと知り、希望者が殺到した。行列を作らせると、なかには威勢の良い男が、「先にやってくれ」と割り込むこともあった。患者のほとんどは中年婦人で、なかには若い女性もいた。訴えは胃痛、頭痛、不眠など、心身症が多いのは意外であった。map 顔や手足の露出部は黒の勝った赤黒い色で、分厚い肌をしており、特に足は固くて苔が生えており、足裏は石のようにこちこちで、ハリやクギを刺しても通らないほどであった。しかし、お腹や、腰、お尻などは柔らかく、色も褐色であった。
 歯科医の話では、「虫歯はなくて、歯根ががっちりと固定されているのに驚いた。普段から固いものを食べているからだろう」とのことであった。子どもたちの体格は頑丈だが、年齢が分からないので、発育状態を比較することは出来なかった。
 ダム近くの山林に彼らの野営のあとがあった。木蔭で、高さ1メートルほどの雑草を掻き分けただけの空間で、人が寝たらしい、畳2枚分の凹みがあった。その片隅には風呂敷包みが置いてあった。また別なところには雑草が丸く凹んだ上を葉のついた竹が屋根のように折り曲げられて覆っていた。これが常の住居とのことだった。
 翌年、2度目の訪問で私はドゥマガトゥ族の間で尊敬されているフィリピン人の牧師に会った。この人の話から、「たいていのドゥマガトゥ族はキリスト教プロテスタント信徒になっており、1人1人にクリスチャン・ネームが与えられ、タガログ語と下界のことを教えられている」と知った。なかには頭の良い子がいて、スポンサーを探して麓の町で教育をしてやることがある。しかし、学校を卒業すると、「やっぱり山が良い」と言って戻ってしまうそうである。

 文と写真:ほしの・くにお 

ドゥマガトゥ族
   ルソン島のケソン、ブラカン、リサール各州の山間部に居住し、狩猟採集生活をしていた先住民。ボルネオやジャワ島からのマレー人が渡来する以前から、すでにこの地に住んでいたネグリート系の人たちで、ピナトゥボ山のアエタの人たちと同じ系統に入る。「ドゥマガトゥ」は「歩く」という意味からきているとされ、海路ではなく陸を歩いて移動してようだ。稲作定住は行わず移動生活をしていた。しかし現在ではキリスト教を受け入れて学校に通うなど、低地の暮らしに同化する傾向にあるが、安定した仕事に就けないなど、生活は依然貧しい。

 ほしの・くにお 
1933年生まれ。外科医。1985年、ロータリークラブの世界社会奉仕委員長として訪比しセブのバンタヤ島の医療現場を視察した。その時、島の山中に「食事も薬ももらえないので死んでしまう」とセブ国立らい療養所から「集団脱走」して身を隠している多数のハンセン病患者がいるという事実を知らされ、衝撃を受ける。以来10年間、笹川財団(現・日本財団)、国際ロータリークラブの協力を得て、自費で生活諸経費を負担しながらの献身的なボランティア活動を行う。北はバタネス島から南はスルー諸島のムスリム地域まで、文字通りフィリピン国中を行脚しながら患者の割り出しと投薬治療に奔走した。1992年〜94年までマニラ日本人会診療所に医師として勤務。現在、マカティ市でリタイアメント生活を送る。ボランティア医療の経験を題材にした短編小説に『セブの聖たち』、『魔の島クリオン島』、『マニラ・いのちの行進』(いずれも未発表)がある。千葉大学医学部卒、プロテスタント。
Main セブで治療始まる中央が星野邦夫医師1985年

ナビ・マニラ第19号[Navi Manila Vol. 19]より

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