リゾートアイランド・セブのこだわり生活情報誌
現在地: Home コラム 比医療ボランティアの旅 第18回 フィリピン医療ボランティアの旅 1988年8月18日 By: 星野邦夫

ブキッドノン、日本人を怖がる人々

The people who are afraid of Japanese, Bukidnon - 1988
By: Dr. Kunio Hoshino

bukidnon

 mapミンダナオ島内陸部にある州のブキッドノンとは「山」を意味し、州庁所在地のマライバライとは「無人の地」を意味する。ブキッドノンはその名の通り高原にあり、松が生え、広大な牧草地に牛が放牧されているのどかな田舎だが、マライバライは人がいないどころか、街路に人があふれていた。もっとも昼時なので、サラリーマンや学校生徒らが食事に家に帰る時刻でもあった。
 1988年8月18日、私はカガヤン・デ・オロ市の知人からドライバー付きタマラオ・ワゴン車を借り、160キロの道のりを走破して到着したばかりであった。まず州立大学へ行き、副学長を探した。この人がマライバライ・ロータリークラブ会長で、私はすでに3通もの手紙を送り、ハンセン病対策への協力を呼びかけていた。返事はなかったが……。
 マニラの保健省から、「ブキッドノンの山間にはハンセン病患者が多く居住している」と話を聞き、どうしても対策を開始して貰わねばと山道をいとわず訪問したのである。
 大学玄関を警護していたガードマンは英語を解しなかったが、ジェスチャーから、私の訪ねる人は大学にいず、昼食のために自宅へ帰ったと知らせた。それで私はワゴン車のドライバーに来て貰い、ガードマンから副学長の自宅へ行く道を聞き出してもらった。
   大学から車で数分のところにあるサリサリ・ストアの前で車をおりた私はドライバーの案内で細い曲がりくねった路地を通り、突き当たりにある大きい屋敷の前に着いた。入り口には金網の扉が閉めてあった。ドライバーが声を掛けると家のなかから女中らしい娘が出てきて、ドライバーと二言三言、言葉を交わしてから、扉を閉めたまま、家に戻って行った。しばらくしてから娘がやって来て、「主人は、『会わない』と言った」と答えた。
 私が名刺とパンフレットを出し、「日本から来たロータリー会員で、『ハンセン病対策に協力を願いたい』と手紙を書いたものです。どうか面会してくださるよう伝言して下さい」と言い、ドライバーに通訳してもらった。娘は再び家のなかに戻ったが、大分時間が経ってから出てきて、先ほどの名刺とパンフレットを返し、「主人は、『会わない。これは返す』と言った」と答えた。
 私は暑さと空腹と失望から目まいがした。かろうじて金網によりかかり、私の気持ちが副学長に通じるように祈った。ドライバーが私の苦衷を察して難詰するような口調で文句を言うと、娘はまた家のなかに戻り、それから主人のメッセージを伝えた。「ガンボアに会え」。そう言うと彼女は逃げるように家に走り込んだ。まるで私が暗殺者でもあるかのような怖がりようであった。
 「ガンボアって誰だろう?」と私が訊くと、ドライバーは首をひねって、「知らない」と答えた。30才前後の色の黒い痩せた、人の好い男であった。「大学の秘書かも知れない」と私は推測し、大学に戻って、先刻のガードマンに尋ねたら、「町役場エンジニアのガンボアだ」と教えた。町では有名人らしい。
 役場へ行くと、「昼食に家へ戻った」と言うので、住所を教わって訪ねた。埃の多い、細い凸凹道を車に揺られて行くと、やがて中流階級の住宅地に出た。そのなかのこじんまりした1軒家がガンボア氏の自宅であった。「やれやれ、これで目的が叶う。昼食にもありつけるぞ」と乾いた唇をなめながら、玄関のドアをノックすると、なかから40代の上品な婦人が出てきて、「主人は会議があって出掛けた」と素っ気ない返事!
 途方にくれた私を見て、婦人が英語で訊いた。「どこから来たの?」。それで私は名刺とパンフレットを出して自己紹介した。そばからドライバーがこれまで我々が受けた仕打ちを訴えるように説明した。驚いた彼女は直ぐ家のなかに案内して電話器にとりついた。
「主人が、レストランに案内して昼食をご馳走しなさいと言った」と言うのを聞いて私は地獄で仏と思った。
 近くのファ-ストフッド・レストランに入ったのは午後3時であった。冷房こそなかったが、室内はひんやりして扇風機も回っていた。そこで飲んだ氷入りコカコーラの美味しかったこと!
 幸いなことに、その晩、カサ・クリスタ・インでロータリークラブの例会があり、私はゲスト・スピーカーとして招待された。会場はインの名の通り、宿屋でもあったので、私とドライバーは隣り合わせの部屋にチェックインすることが出来た。

old woman

    例会は新しい清潔な感じの食堂で開催された。会員が20名ほど出席し、出席率は90%と自慢していた。このロータリークラブの変わったところは、サンミゲル社のビールが際限なく出されることと、司会者に指名されたものは何か一言ジョークを喋らなければならないことであった。主としてセックスに関するブラック・ジョークのたぐいであった。最後に私が指名され、「ゲスト・スピーカーとして極上のジョークを披露してくれ」と命じられた。
 私はしばらく考えをめぐらせ、マニラのロータリークラブで聞いたジョークに私の創作をまじえて話した。
 「ある人が天国へ行った。例のごとく、聖ペテロが出てきて天国を案内した。カガヤン・デ・オロのように美しい浜辺に出てくると、おかしなものがたくさん空からぶら下がっている。『ミスター・ペテロ、この唇みたいなものは何ですか?』と訊くと、『それは政治家の唇だ』と聖ペテロが答えた。天国も人口が増えたので環境保全のために、からだ全体でなく、からだの一部分だけ保存することになった。人が一番使って社会に貢献した臓器だけ空中にぶら下げて、復活を待たせているとの説明である。膝小僧がいくつもぶら下がっているので、また訊いた。『ミスター・ペテロ、これは誰ですか?』『修道尼だよ』と聖ペテロが答えた。
 別のところではチューブのようなものがたくさんぶら下がっていた」と、そこまで話して私は会員一同の顔を見まわして尋ねた。「我が友よ、これは誰の臓器だと思いますか?」すると、1人の白髪の小柄な男が大声で答えた。「プロスチチュート!」「あたりっ!」と私は叫んだ。
 会場が爆笑の渦に巻き込まれた。ガンボアが立ち上がって拍手したので、皆も総立ちになって拍手し、しばらくどよめきが止まなかった。私が訪ねてきた大学の副学長はロータリーの会長を辞め、7月からデルフィン・ガンボアが会長を務めていた。正解をした白髪の男は医師ドミンゴ・リンボであった。
 それからマライバライ・ロータリークラブと私との間に契約書が取り交わされ、ブキッドノン州におけるハンセン病対策に協力する約束がなされた。ドミンゴ先生によれば、同州人口80万人のうち219名の患者が登録されており、発見活動をすれば、その倍の患者が見つかるという。「一刻も早く、患者を見つけ出して治してやって下さい」と頼むと、彼は、「任せておけ」と頼もしい返事をくれた。
 ある会員はこういう話をした。
「ボクは日本人は怖いと思っていた。第2次大戦のとき、ボクは子供だったが、日本兵に追いかけられ、銃弾を浴びせられた。日本人はフィリピン人の子供を捕まえて食べる、残酷な人種との噂だった。だから、いままでボクは日本人が怖かった。しかし、今夜、君に会ってユーモアを解する普通の人間と分かった」

  翌朝、隣室でドライバーが悲鳴をあげた。シャワーの水が冷たいのでびっくりして叫び声をあげたのである。800メートルの高地なので、早朝は冷えた。温水はなかったし、もちろん暖房はなかった。
 帰りの山道で2回もパンクした。2回目のときはスペア・タイヤがないので、ドライバーがヒッチハイクをしてカガヤン・デ・オロへタイヤの修理に行った。その間1時間ほど私は車のなかで待った。脇を通り過ぎる車は時速100キロも出すので、すれ違うたびにこちらの車が揺れた。
 町に着いたとき、知人が言った。「故障した車のなかに1人でいるなんて、無鉄砲なことだ。あそこは追い剥ぎ街道と言って日中でも追い剥ぎが出る。ドライバーと一緒に町へ来れば良かった…」。皆が100キロも出してふっとばす理由が分かった。
 私が無事だったのは、追い剥ぎが日本人とみて怖がったからであろうか? 

 写真: ナビ・デ・セブ編集部

ほしの・くにお 1933 年生まれ。1985年、ロータリークラブの世界社会奉仕委員長として訪比しセブのバンタヤン島の医療現場を視察した。その時、島の山中に「食事も薬ももら えないので死んでしまう」とセブ国立「らい」療養所から「集団脱走」して身を隠している多数のハンセン病患者がいるという事実を知らされ、衝撃を受ける。 以来10年間、笹川財団(現・日本財団)、国際ロータリークラブの協力を得て、自費で生活諸経費を負担しながらの献身的なボランティア活動を行う。フィリ ピン国中を行脚しながら患者の割り出しと投薬治療に奔走した。1992年〜94年までマニラ日本人会診療所に医師として勤務。現在、マカティ市でリタイア メント生活を送る。千葉大学医学部卒、外科医。プロテスタント。

 

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