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第20回(最終回) 閉ざされた地アブラ

フィリピン医療ボランティアの旅 1988年9月 By: 星野邦夫   ABRA-1988 By: Dr. Kunio Hoshino

村落間の平和協定で銅鑼をたたきながら踊る村人

 アブラとは「開く」、バンゲッドは「閉じる」を意味する。アブラ州都バンゲッドとは「開かれた地の閉ざされた町」ということになる。実際はアブラ州は閉ざされた土地である。州の中央を80キロに亘って流れるアブラ川は両岸を急峻な山によって挟まれ、舟の往来を許さない激流となってビガンまで流れ下る。近年になってトンネルが開通し、自動車が通えるようになるまで交通は不便であった。それにしても州庁所在地のバンゲッド町へはビガンから直線距離にして25キロしかないのに、迂回して50キロの山坂道を辿らねばならなかった。 
写真提供: 杉井信氏(宮城学院女子大学 准教授)

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第19回 ドゥマガトゥ族に会う 1986年1月

フィリピン医療ボランティアの旅 1986年1月 The Dumagat Tribal Folk of Bulacan - 1986  By: 星野邦夫 Dr. Kunio Hoshino

ドマガツ族母子

フィリピンの先住民族は総称してネグリト族と呼ばれる。大陸と地続きだった時代に肌の黒い、髪の毛が縮れた小柄な、彼らの先祖が来て住みついたようだ。フィリピンが小さな島々に分かれてから、船を建造できるマレー人が渡航して来たので、先住民たるネグリト族は山の中に追いやられた。中部ルソンの、主としてブラカン州の山中に入った人たちがドゥマガトゥ族である。ピナツボ噴火のために移住せざるを得なくなった種族はアエタ族と呼ばれる。ミンドロ島にもいると言われるし、ミンダナオ島では石器時代の生活を保っている人たちが発見されたこともあった。

私の友人の父アレホ・サントスは第2次大戦前はマニラの巡査であったが、バターンでの日本軍の行為を聞くに及び、職を捨てて抗日ゲリラの群れに身を投じた。彼はリーダーシップに富み、勇敢だったので、戦争が終わるころはブラカン州ゲリラ隊の隊長になり、山中でドゥマガトゥ族と親しくなった。
   当時のドゥマガトゥ族は未開の生活をしていた。男はふんどし一丁、女は腰巻だけのトップレス姿で、あちらに1家族、こちらに1家族と家族単位の生活であった。耕作も家畜飼育もせず、男は槍で野豚をとり、女は木の実を採集していた。

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第18回 フィリピン医療ボランティアの旅 1988年8月18日 By: 星野邦夫

ブキッドノン、日本人を怖がる人々

The people who are afraid of Japanese, Bukidnon - 1988
By: Dr. Kunio Hoshino

bukidnon

 mapミンダナオ島内陸部にある州のブキッドノンとは「山」を意味し、州庁所在地のマライバライとは「無人の地」を意味する。ブキッドノンはその名の通り高原にあり、松が生え、広大な牧草地に牛が放牧されているのどかな田舎だが、マライバライは人がいないどころか、街路に人があふれていた。もっとも昼時なので、サラリーマンや学校生徒らが食事に家に帰る時刻でもあった。
 1988年8月18日、私はカガヤン・デ・オロ市の知人からドライバー付きタマラオ・ワゴン車を借り、160キロの道のりを走破して到着したばかりであった。まず州立大学へ行き、副学長を探した。この人がマライバライ・ロータリークラブ会長で、私はすでに3通もの手紙を送り、ハンセン病対策への協力を呼びかけていた。返事はなかったが……。
 マニラの保健省から、「ブキッドノンの山間にはハンセン病患者が多く居住している」と話を聞き、どうしても対策を開始して貰わねばと山道をいとわず訪問したのである。
 大学玄関を警護していたガードマンは英語を解しなかったが、ジェスチャーから、私の訪ねる人は大学にいず、昼食のために自宅へ帰ったと知らせた。それで私はワゴン車のドライバーに来て貰い、ガードマンから副学長の自宅へ行く道を聞き出してもらった。

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第15回 コタバトの紛争

フィリピン医療ボランティアの旅 1998年9月29日
By: 星野邦夫

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「ホテルに泊まってはいかん」
   1998年9月29日、ミンダナオ南西部のコタバト空港に着いた私は、出迎えにきているはずの友人トマス・アチエンサとチュア・ベン・ユーの2人を探したが、その姿は何処にもなかった。「忘れたか?」と思った。「日を間違えたかな?」とも思った。フィリピンではいつでもあり得ることであった。空港建物前から乗り合いジプニーが発車するところだったので、後部座席に飛び乗った私は隣に座った男に、「この車はアリストクラット・ホテルへ行きますか?」と訊いた。男は、「ああ、行く。ホテルに着いたら教えてやる」と答えたので安心した。
   ホテルでチャックインしていると2人がやって来た。チョビひげを生やし腹の突き出たトマスは、コタバト・ロータリークラブ会長で建築業を営む中国系。痩せたチュアはトマスのいとこで、ロータリー会員、製材会社を経営していた。私は2人とセブで知り合っていた。空港へ出迎えに行ったら誰もいず、「日本人ならジープニーに乗った」と聞いてホテルへ追っかけてきたという。
   「ホテルに泊まってはいかん。チュアの家に泊まれ」とトマスが言う。前月、南ラナオ州の州都マラウィで言われたのと同じだと思った。私はホテルの方が自由がきくし、町なかを散歩して歩けるので好きだった。市場へ行って売られている鮮魚や小鳥などを見たいし、埠頭へ行って乗り降りする人を観察したかった。しかし、2人の好意を無にすることが出来ないので、チュアの家に泊まることにした。それは電動式の丸鋸を備えた工場の隣にある2階建ての豪壮なやかたであった。
   午後、チュア夫妻がこもごも語る町の話に慄然とした。前後関係を整理すると次のようになる。

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第13回 ビコール土産物店

ィリピン医療ボランティアの旅  1989年5月23日    By: 星野邦夫
624 「ルソン島アルバイ州レガスピ市マーケット内ビコール土産店」は、私がビコール地方で唯一知っているアドレスであった。1989年5月23日、私はマニラから空路レガスピに入った。あいにく雲が邪魔して名物のマヨン火山は見えなかった。
   同伴の保健省役人ポシス女史と、私の家内ともども、第5地方保健局長を表敬訪問したあと、2人の女性をホテルに残して店を探しに出掛けた。ホテルのボーイが、「マーケットなら知っている」と送ってくれた。町のメーンストリートの突き当たりに、「レガスピ・マーケット」と大書した市場の建物があり、その正面に「ビコール土産店」があった。
   市場の建物の外に面した、間口2間の店で、雑多な品物が足の踏み場もないほど並べられた雑貨店であった。茶色い麻の手提げ袋がいっぱい天井にぶら下げられ、右手の壁の棚には大小さまざまな麻の袋ものが置かれ、それらは日本人の好みには合いそうもない、ごついものばかりであった。しかし、奥にはガラス・ケースに陳列されたエレガントなピンクやクリーム色のハンドバッグもあり、値段は千円ぐらいであった。
   左手にはこの地方の産物であるピリナッツが、大は60キロ入りの大きい袋に入れて床に投げ出され、小は茶筒ほどの透明なビニール袋が棚に載っており、1袋230円で売られていた。ピーナツほどの大きさと形をしており、クルミに似た歯触りと味がする。
   店番は女ばかり4人ほどで、そのうちの中年の1人が番頭格であろうか、私に、「何が欲しいか?」と訊くようなビコール語で話しかけた。それで、「ご主人はいますか?」と英語で尋ねたら、これは通じなかった。親指を突き出して、「ボス?」と訊いたら、判ったらしく、「ハウス」と答えた。彼女は外国人が主人を訪ねてきたと感づいて、一番若い、赤ん坊を抱いている娘に言いつけて私を家に案内させることにした。電話はないようだった。その娘は20才ぐらいであろうか、赤ん坊を他の店員に預け、草で編んだ袋を幾つか持つと、「こちらへ」というような言葉を発して手招きした。
   買い物客目当てのオートバイの横ににリアカーを取り付けたような3輪の「トライシクル」が集まる広場で1台を拾い、揺られて行くこと約10分、町外れに近い住宅地にやって来た。マルコス・イメルダ公園と標識がある荒れ果てた児童遊園地でトライシクルを降りた。値段は2人で2ペソ(約7円)であった。
   主人の家は公園の隣にあった。中流の下と思われる2階家で、敷地は狭くて全く手入れがされていず、土産店と同じに雑然としていた。私を案内してきた店員が外から声をかけると、老人の声が、「おう、おう」と聞こえた。店員が何か叫ぶと、老人がぼやく声が聞こえた。「なに、外国人の客だと?そんなヤツは知らんな」とでも言っているようで、裸のからだを覆う着物を見つけているようでもあった。かなり時間が経ってからドアが開き、出てきたのは西部劇のガンマンを思わせる、目つきの険しい、痩せて背の高い、姿勢の良い老人で、これがビコール土産店の主人、レガスピ・ロータリークラブの会長アシセロ・コラルデ(63才)、その人であった。
  「家は散らかっているから町へ行こう」と彼が言うので再びトライシクルを拾った。女店員は女中を兼ねるらしく、ホーキを持ち出して、庭を掃き、犬の糞を始末し始めた。
   彼の話によれば、「長年セブ市の裁判所判事を勤めたあと、2年前に定年退職して、それまで家内が経営してきたビコール土産店を手伝うべく、レガスピ市に戻った。地元のロータリークラブに入会したら、直ぐ会長に選出された」ということだった。私が先刻、店の番頭とみたのは奥さんだったのである。当日の夜、ロータリークラブの例会が開かれるというので出席を約して別れた。
   午後7時半、古色蒼然たるマヨン・ホテルでロータリークラブの例会があるのでポシス女史と家内を連れて出掛けた。会場は天井も壁もかまどで燻したかと思うほどすすけて黒くなり、正面に掲げられた国旗もロータリー旗も煮しめたように茶色く変色し、雑巾のように厚ぼったくなっていた。ボーイは汚れたバロン・タガログをまとい、髪の毛が薄い、無愛想な小柄な老人で、ロータリーの会員かと思ったら、そうではなく、せっせとビールビンを運んでいた。最初3人しかいなかった会員は段々その数を増し、用意されたテーブルに就いてビールを飲み出した。私は1人1人に日本から持って来た靴下を配り、用向きを説明した。
   午後9時、つまり定刻から遅れること1時間半に開会宣言がなされた時はコの字に配列された席が満員になっていた。テーブルの上には空のビールビンが林立し、室内はタバコの煙が充満して息も出来なかった。アシセロ会長の合図で一同起立し、国歌を斉唱してから祈祷があり、それから食事に入った。1時間ほどしてもう終わりかと思った頃、会長が私に、「挨拶しろ」と言う。演壇に立った私はビールに酔って真っ赤な顔をし、からだがふらついていた。そして、朦朧とした頭で、さて何から切り出そうかと迷った。日中に会長と話し合ったとき彼が、「第2次大戦でレガスピに進駐した日本軍人から『あーあーあの顔で』という軍歌を教わった」と言ったのを思いだし、即興に「あーあーあの顔で、あの顔でー」を歌った。ついでに銚子ロータリークラブと姉妹クラブという話を思い出し、「枯れすすき」も歌った。そして、「ハンセン病対策に協力してください」と頼むと一同拍手して同意を示した。早速その場で調印式が行われ、会長と私の間の契約書にサインされた。私が資金を送るから、レガスピ・ロータリークラブはハンセン病対策の講習会のスポンサーとなり、その後の患者発見、治療、リハビリに協力するという内容であった。
   これより先、私は会長宛に3回も手紙を送り、協力を依頼し続けたが、まったく返事がなかった。来てみたら手紙を受け取ってはいたが、協力に積極的でなかったことが分かった。理由の第1は会長自身が不景気で参っていた。第2は共産反乱軍の跋扈(ばっこ)で観光客が減り、町が沈滞状態であった。第3は会長の任期が6月末で切れるので、新事業に踏みきれなかった。それで返事をくれなかった。しかし、ここまで日本からやって来て、「あーあーあの顔でー」まで歌って頼まれれば、「ノー」とは言えなかったのである。
   ビコール地方はルソン島南部の細長い半島にあり、最大の都市レガスピ市(人口9万)のあるアルバイ州のほか4州がある。コプラ、麻、ピリーナッツ、魚、貝殻細工などが主産物であり、レガスピ郊外にそびえるマヨン火山と近くのカラスカイ海水浴場はフィリピンでも1、2を争う観光名所であった。
   1987年11月、台風がこの地方を襲い、高波で死亡と行方不明合わせて500人、家の倒壊、船の流失、農林産物の被害は甚大で、地方経済に壊滅的打撃を与えた。その上悪いことに、共産反乱軍がこのときとばかり暴れだし、橋を爆破したり、警察を襲ったり、軍隊を待ち伏せしたりして治安を乱した。さらに反乱軍をかたる盗賊団も跳梁して住民の苦難を倍加した。ハンセン病どころではないというのが本音である。
   翌日から私と家内の各州訪問の旅が始まった。保健省のポシス女史はマニラに引き返すことになった。「旅費や滞在費が出ない。あなたが出してくれれば同行する」と言ったので、私は、「予算がなくて」と断った。どうせ協力してくれるNGOを探す旅なので、彼女の同行は役に立たないと判断したからである。
   翌日は半島の東先端にあるソルソゴン州ソルソゴン町へ行った。レガスピ市から50キロ、バスで1時間の旅である。そこにはロータリークラブがないので、カトリック教会の司教宛に協力依頼の手紙を出したが、返事がなく、訪れてみたら、玄関払いを食った。途方に暮れた私たちは暑い田舎の町中を歩いていたら、たまたま州立病院があったので、立ち寄って婦長さんを探した。彼女はフィリピン看護協会ソルソゴン支部長をしていたので、事情を話して協力を依頼したら、「では看護協会として協力します」と快く引き受けてくれた。
   次いで南カマリネス州のナガ市(人口8万)へ向かった。レガスピ市を通り越し、更に90キロ西方へ行ったところである。ロータリークラブの会長はアメリカに移住して不在だった。それで、何回手紙を出しても返事が来なかったのである。代理を勤めるビジネスマンのコンセプション氏が協力してくれることになり、当夜彼が経営するホテルで例会があり、私はそこで対策について説明する機会を与えられ、宿泊場所も与えられた。
   翌日、ナガ市から北西方80キロの南カマリネス州のダエット市(人口6万)へ向かう。ロータリークラブ会長は任期中途で破産して辞任していた。しかし、元会長のカサル氏が協力してくれることになった。彼は74才、中国系ビジネスマンで顔が私の父にそっくり、眉が太く目が大きく、鼻が長かった。彼の言葉は印象的であった。「どこのロータリークラブも金がない。日本のロータリークラブが出した金で我々がハンセン病をなくすために奉仕活動をさせて貰えるならば、有り難い」。
   夕方ダエット市からレガスピ市まで約170キロの道のりを、バスで5時間かかって戻った。山中に来ると道路から50メートルの範囲の樹木がすべて切り取られて見通しが良くなっていた。これは反乱軍や盗賊団の待ち伏せを防ぐためであった。村落に入ると、人々は風通しが良い道路に座って夕涼みをしていた。コンクリートが冷えて快いのかも知れない。気温のせいか当地ではアスファルトを使わず、コンクリートで舗装していた。バスが警笛を鳴らして行っても、知らぬ顔で座り続けている。そして、あわやという瞬間にサッと立ち上がって飛びのいた。それはどこの村でも同じであった。
   6月27日朝、快晴。マニラ行きの飛行機に乗った私たちは富士山に似たマヨン火山(2452メートル)を心ゆくまで眺めることが出来た。フィリピン航空は観光客へのサービスのためか、上空を大きく旋回して優美な姿を充分に鑑賞させてくれた。頂上近い9合目から噴出している白煙が別れを告げるハンカチのように見えた。

▶ ほしの・くにお
   1933 年生まれ。外科医。1985年、ロータリークラブの世界社会奉仕委員長として訪比しセブのバンタヤ島の医療現場を視察した。その時、島の山中に「食事も薬 ももらえないので死んでしまう」とセブ国立らい療養所から「集団脱走」して身を隠している多数のハンセン病患者がいるという事実を知らされ、衝撃を受け る。以来10年間、笹川財団(現・日本財団)、国際ロータリークラブの協力を得て、自費で生活諸経費を負担しながらの献身的なボランティア活動を行う。北 はバタネス島から南はスルー諸島のムスリム地域まで、文字通りフィリピン国中を行脚しながら患者の割り出しと投薬治療に奔走した。1992年〜94年まで マニラ日本人会診療所に医師として勤務。現在、マカティ市でリタイアメント生活を送る。ボランティア医療の経験を題材にした短編小説に『セブの聖たち』、 『魔の島クリオン島』、『マニラ・いのちの行進』(いずれも未発表)がある。千葉大学医学部卒、プロテスタント。

*文中の年齢や料金、人口などは1989年当時のものです。(編集部)

ナビ・マニラ第13号[Navi Manila Vol. 13]より

第12回 カガヤン川を越える

フィリピン医療ボランティアの旅  1989年10月18日 By: 星野邦夫

Crossing Cagayan River
   1989年月8日、私はカガヤン川を越えた。同行者はセブ医大学長シーサー・エスタリヤ(62才)とその妹でカトリック・シスターのテレシナであった。エスタリリヤ一家は信仰に篤く、長男シーサーは医者になったが、次男は神父になってカガヤン川増水で殉死を遂げ、長女テレシナと次女コラソンは修道尼になった。シスター・テレシナはバギオ市のセントルイス大学教授の職を投げうち、貧しい農民に奉仕すべく、北ルソン・イサべラ州の小村に赴任した。
   兄のシーサーがハンセン病対策に協力し出し、各地の患者発見と治療を支援していることを知ったシスターは任地の住民のなかにハンセン病患者が多いことに気付き、対策に従事することとなった。
   この日、途中で合流した私たち3人はシスターが臨時に雇ったジプニーに乗り、田舎道をやって来て、カガヤン川畔にたどり着いた。橋はなく、一昨日の台風で水かさが増えて、幅600メートルの急流があった。前日、ここで渡し舟が転覆して13人が死亡したばかりである。なかには水泳の達人もいたが、渦に巻き込まれて溺死した。ジプニーの運転手は屈強なからだをした中年男で、海軍の軍人あがりと自称していたが、いくら海軍上がりでも、ジプニーで大河を渡ることは出来まいと思った。荒れ狂う濁流をどうして渡り切るのかといぶかしがっていると、向こうから小舟がやって来た。長さ5メートル、幅1メートルほどの木製のモーターボートを2艘横に並べてつないでいる。ボートの上には細長い2枚の板を横に載せてあった。
Crossing Cagayan River3
   私はこれを見ていやーな予感がした。小学校6年のとき郷里の手賀沼で大勢の先生方が遭難した。このときは小舟を2艘宛横に並べてつないでいたのが、風にあおられて転覆したのだった。それから沼では2艘の小舟を繋ぐことはタブーになっていた。
   シーサーの顔を見ると、手を組み合わせて祈っていたが、やがて目を開けて、「ここにはワニがいる」と言った。シスターはどうかと見ると、確信に満ちた表情である。
   岸辺に波止場はなく、舟べりと砂浜の間に2枚の板が掛け渡され、その上にジプニーの車輪をのせてボートに登るのである。ところが、板は短いので陸に届かず、水辺から3メ-トル離れた水中に着地していた。従ってジプニーはじゃぶじゃぶと川水のなかに進み入り、やがてタイヤの下に板を捕らえ、爆音を上げて板のスロープを登って行った。
   私たちは成り行きいかんと息を詰めた。私は助手席に、シーサーとシスターは後部座席に座っていた。タイヤが板を踏みはずすのでは? ジープニーが横転するのでは? あるいは勢い余ってボートの反対側に飛び出すのではないか? などと恐れおののいた。その間、20秒。ジプニーは舟に渡された2枚の板の上にぴたっと止まった。
   私は一部始終をカメラに収めたが、翌日現像を依頼しようと点検したら、フィルムが入っていなかったことに気付いた。「しまった。もう一度行って渡し場の写真を撮らなければ」と言うと、シーサーは、「どんな大金を貰おうと、2度とあんな危険をおかしたくない」と身震いさせた。
   対岸はかってマグサイサイと呼ばれた村であったが、今は当地出身の下院議員の名を貰ってデルフィン・アルバノと改名されていた。シスターは3ヶ月前からここでハンセン病対策を開始していた。村の保健センターに勤務する若いガンバラン医師と保健婦が中心となり、それにシスターの手助けをするボランティアが数名対策に従事した。
   私たちが到着したとき、保健センター前の広場には50名ほどの老若男女子供たちが集まっていた。なかには一目でハンセン病と判る障害者もいたし、治療薬のせいで顔面が黒く変色した娘らもいた。彼らは朝から私たちの到着を待っていたという。治療中の患者と疑わしい患者を診察したあと、シスターに促されて私は挨拶した。
Crossing Cagayan River4
   「ボクは日本の農村に生まれました。子供のころ関節リュウマチにかかり、村の医者に治して貰ったので、自分も医者になって病人を助けたいと決心しました。53才のとき、フィリピンの恵まれない人々のために奉仕したいと希望してやってきました」と語った。
   シーサーはこの地方のイロカノ語で演説した。「ハンセン病は遺伝病ではなくて細菌によって起こる病気であり、一定の期間薬を飲めば完治する。日本のNGOが寄付した金をセブのロータリークラブを通じて全国のハンセン病対策に用立てている。治療を終了したものには自立のための援助をする」。
   人々の間にどよめきが起こった。「完治と自立!」それはハンセン病患者が得ようとして得られなかった夢であった。それが手の届くところに来たと知らされ、彼らは興奮して声を上げたのであった。
   そこは長さ250キロに及ぶ大河カガヤンが形作った肥沃な平野のど真ん中にある田園地帯で、患者たちは田圃のなかの一軒家に住み、人の目に触れないようにして暮らしていた。シスターはスタッフとともに1軒1軒たずねて歩き、患者を見つけては皮膚スメア検査を受けるよう勧め、検査が陽性に出た人には治療を受けるよう説得してきた。彼らは不治とされた病気が治ると知らされ、希望に満ちた生活を送るようになった。患者の喜びはシスターの喜びでもあった。それは木蔭で患者と話している彼女の美しい笑顔に見てとれた。
   翌日は北ルソンの大都市トゥゲガラオへ行き、ロータリークラブの会合に出席した。席上シスターがした講話は生涯忘れられない。
Crossing Cagayan River2
   「わたしはハンセン病に興味を持っていなかったので、周囲にこんなに患者がいると思いませんでした。しかし、ハンセン病対策に従事するようになり、患者がたくさんいることを知りました。ジプニーのなかで出会った人は明かな症状を持っていたので、わたしのところへ来るように言いました。後日その人が訪ねてきたので、一緒に保健センターへ行って診察を受けたら、やはりハンセン病と判り、直ちに治療が開始されました。また、あるときは路上で会った人が患者と気付き、声を掛けました。すると、その人は自分の家に来るように言いますので、ついて行くと、田圃のなかの1軒家で、家族のなかに3人の女の子が発病していました。わたしに見えなかったハンセン病患者が、いまは見えるようになったのです。かって、わたしは病菌がうつることを恐れました。そのために患者と出会うことを避けていました。しかし、今は違います。患者に出会い、その人が必要とするものを与えることが、わたしの任務と悟ったからです。わたしが所属する聖フランシス修道会の始祖である聖フランシスはハンセン病患者に出会ってから放蕩生活を止めて信仰生活に入ったと伝えられます。わたしは患者に仕えることにより、信仰を深めたいと念じています」
   なみいる会員はいたく感激し、大兵肥満のビジネスマンのイワ氏は涙を浮かべて協力を約束し、国立カガヤン・バレー病院の放射線科部長ラミレス医師は、「来年定年退職したら、余生をハンセン病対策に捧げたい」と言明した。
   会が終わってから、ラミレス医師が、「病院を見に来い」というものだから見学に行くと、日本の援助で貰った機材が使われないであった。放射線科では造影撮影用のフィルム交換機と急速注射器、中央検査科では原子光学分析機、酸塩基分析器、自動血球計算器などがビニール布をかぶって置かれていた。「技術がないとか、消耗品がないとかで使えない」とのことであった。
   翌1990年3月3日、私はシーサーと一緒にシスターを再訪した。5ヶ月の間に発見された患者は64名に達した。これはデルフィン・アルバノ村と隣のサント・トマス村の人口4万人のなかの患者数である。
   帰途私たちはトゥゲガラオ市へ出てマニラ行きの飛行機に乗ろうとしたが、動乱が起きた。カガヤン州のアギナルド知事が反政府の立場を表明した。それで中央政府は自治省長官と国防省局長の2人を派遣して説得を試みた。ところが、アギナルド派の私兵が2人をホテルに監禁し、あまつさえ局長フロリンド将軍を殺害してしまった。州庁には私兵2千人が立て篭もって反乱を起こしたという。国道上にヘリコプターが飛び交い、銃声も聞こえた。私たちは高速バスでマニラへ帰ることにした。
   ヌエバ・ビスカヤ州バヨンボンの橋に差し掛かったとき、バスは完全武装した兵隊に止められた。「これから戦争になる。バスは弾除けに使う」とのことだった。それで私たちは近くの州立病院に避難した。しかし、幸いなことに戦争は起こらず、翌朝バスが動いてマニラへ帰ることが出来た。
   3回目にシスターを訪問したときは路傍に放置された死骸を見た。共産ゲリラに殺された男であった。私は怖じ毛を震わせた。「明日はわが身」と思ったからである。何故恐れたか? 死ぬときは故郷で家族に手をとられ、タタミの上でと願っていたからである。「でも、間に合わないや。まあ、どこで死んでもし方がない」と、そう思い直したとき、私から恐怖の念が消えた。
   心のなかのカガヤン川を越えた。

ナビ・マニラ第12号[Navi Manila Vol. 12]より

▶ ほしの・くにお
   1933 年生まれ。外科医。1985年、ロータリークラブの世界社会奉仕委員長として訪比しセブのバンタヤ島の医療現場を視察した。その時、島の山中に「食事も薬 ももらえないので死んでしまう」とセブ国立らい療養所から「集団脱走」して身を隠している多数のハンセン病患者がいるという事実を知らされ、衝撃を受け る。以来10年間、笹川財団(現・日本財団)、国際ロータリークラブの協力を得て、自費で生活諸経費を負担しながらの献身的なボランティア活動を行う。北 はバタネス島から南はスルー諸島のムスリム地域まで、文字通りフィリピン国中を行脚しながら患者の割り出しと投薬治療に奔走した。1992年〜94年まで マニラ日本人会診療所に医師として勤務。現在、マカティ市でリタイアメント生活を送る。ボランティア医療の経験を題材にした短編小説に『セブの聖たち』、『魔の島クリオン島』、『マニラ・いのちの行進』(いずれも未発表)がある。千葉大学医学部卒、プロテスタント。

第11回 北イロコス・マルコス王国

フィリピン医療ボランティアの旅  1988年9月18日 By: 星野邦夫ilocos norte

1988年9月18日朝、ルソン島北西端の北イロコス州ラオアグ空港に着いた。マニラの保健省が電報を打ってくれ、州保健部から出迎えにくる手筈になっていたが、誰もいなかった。後日分かったことだが、電報は、「9月16日に到着」となっていた。その日は飛行機便がないにもかかわらず、保健部から出迎えに行ったという。
町なかのテリシカ・ホテルにチェックインして散策に出掛けた。直ぐ近くに州庁舎があった。ギリシャのパルテノン神殿を思わせ

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第10回 さい果ての島タウィタウィ

フィリピン医療ボランティアの旅  1988年4月30日 By: 星野邦夫

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   タウィタウィとはマレー語で「遠い」を意味する。日本語の「トーイ、トーイ」とどこか似かよった言葉である。タウィタウィはそれほど遠い、さい果ての島である。フィリピンでも南端のサンボアンガ市から海上300キロ、プロペラ機で70分、船で2日のところにあり、その先はマレーシア領ボルネオ島サバ州である。
   タウィタウィ州人口20万人、9割はイスラム教徒、大小307の島々
   がスールー海に浮かんでおり、いちばん大きいタウィタウィ島は直径55キロ、ジャングルで覆われ人は余り住んでいない。この西隣に飛行場のある小島があり、更にその南隣に直径5キロの小島があって、そこに州都ボンガオがある。ボンガオには船が停泊できる水深のある港があり、「中国埠頭」と呼ばれ、昔から中国の貿易船がホロ島とボルネオ島サバ州のサンダカンとの間の中継港として利用していた。従って町には中国商人の居留地があり、今でも賑やかな市場や商館がある。

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