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昔日(戦前)のセブ

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昔日(戦前)のセブ
Prewar Days of Cebu

   私が大阪貿易社員としてセブに渡ったのは、1935年9月だった。当時はフィリピンといっても地球上のどこにあるのか知らない人が多かった。ましてや「セブ」と聞かされても、全く見当もつかなかった。その頃のセブ市は「南のクイーン・シティ」「歴史の都」と呼ばれていて、1738年スペインの築いた石造りの「サン・ペドロ要塞」が昔と変わらぬ光を伝えていた。「聖オーガスチン教会」は1565年にマゼラン・クロスの脇に建てられたが、二度にわたる大火で消失、1735年~40年にかけて再建されたもので先の大戦の戦火から免れた。
   市内にコロン通りと言われる、フィリピン最古のスペイン時代の街並みがあった(コロン通りの名はコロンブスに由来する)。

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   1660年代には交易の要地として繁栄したセブ市の中心街で、珊瑚礁で築かれた家、彫刻のある建物、石畳の道などその昔の栄華を誇った面影が偲ばれた。しかし1942年4月10日、日本軍の川口支隊がセブ市南方のタリサイ海岸に上陸した朝、米比軍の『焦土撤収作戦』で中心街が跡形もなく瓦礫の原と化した事が惜しまれる。 当時市内の交通はカルマタ(馬車)が頼みであった。10センタボスも払うと市内は大体行く事が出来た。汚い話だが懐かしいといえば、黄色い馬糞が乾燥しその粉末が埃となり店の台や棚を覆い、鼻をほじると黄色い鼻クソが出てきたことである。コーヒーやコカ・コーラが5センタボスで飲めた。ジョーンズ・アベニューも道の両側からアカシアの古木がうっそうと繁り緑のトンネルを作っていた。
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   マンゴー通りも道の中心をマンゴーの並木が連なり、その中をカタコト、カタコトとカルマタが屈託なく走っていた。日曜日ともなると、ロータリーのフェンテ・オスメニアには良家の子女が、その頃では流行の先端で珍しがられた色とりどりのパンタロン・ルックでローラー・スケートを楽しんでいた。フェンテ・オスメニアからキャピトルまでは、国立図書館があるだけで他に建物はなく広場になっていた。
   当時、既に日本人の活動も盛んであった。在留邦人も250名位住んでいた。ボルネオ街に、「京都」「大阪」「セントラル」のバザール(商店)、向かいには「大正バザール」があった。マガリヤネス街には「昭和」「サクラ」「森」「日本」の各バザール、森自転車、砂田写真展などが商店街の一角を占めていた。その他、「マヨン」「オネスト」「世界」の各バザールが市内に点在。大阪貿易、三井物産、サンポート、下村モンゴ店(ハロハロの元祖)、衣笠日本料理店、中村旅館、川戸建設、また漁業関係では沖縄出身の長嶺組、当山組が活躍し、木材、鉱山方面にも2、3の企業があった。
   ラフッグには1935年に立派な日本人小学校が新築され、30人前後が在校していた。毎年4月29日(天皇誕生日)には在留邦人一同が会し、在校生と共に奉祝運動会を盛大に行った。
   そんなセブ市も、マンゴー通りの並木も道路整理のため1本残らず切り払われ、昔を偲ぶよすがもない。ジョーンズ・アベニューも古木に替わって、戦後植えられたアカシアが大分成長している。カルマタの蹄の音も市内では耳にする事が希になった。南の楽園として、自然と人も牧歌調だった風情もすっかり都市化されて、文明の荒廃の渦に巻き込まれている。セブの人々は独自の歴史伝統、文化をどこかに置き忘れているのではないだろうか。
 尚、私は1945年11月、敗戦による引き揚げ帰国で丸10年ぶりに、セブから愛媛県の故郷に帰った。50余年経った今、一将の功もならず万骨も枯れてしまったが、1991年と95年の二度セブを訪れている。
   『セブ島通信』第51号(1999年7月)より転載(写真:編集部)

ナビ・デ・セブ第2号[Navi de Cebu Vol. 2]より

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