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セブとマカティにあった 飛行場の今昔

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By: 松本重樹
   山下奉文大将といえば、戦犯として処刑後も「山下財宝」の話題に今も事欠かない人物だが、1944年(昭和19年)9月、満州に飛ばされていた山下はフィリピン守旧の陸軍第14方面軍司令官としてマニラに着任。その時降りた空港がY字状に2本の滑走路を持つ「ネルソン飛行場」で、主滑走路は現在のマカティ市アヤラ通りに当たる。
 山下の着任時の第一声が「レイテってどこだ」とあるが、これはいかにも出来過ぎた話で、山下はそんな凡将ではない。ただし、無策、泥縄だった軍部の象徴として見れば、フィリピン戦線にはこの科白は似合う。
 戦後のネルソン飛行場は国際空港として使われ、1948年に短い使命を終えるが、もう1本の滑走路(現在のパセオ・デ・ロハス通り)がアヤラ通りに交差する地点に当時の管制塔が健在、「ネルソン・タワー」と命名され今は博物館になっている。
 
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カラバオが草を食んでいた長閑なこの飛行場一帯を廃港後に再開発したのがフィリピン財閥の雄「アヤラ」で、その面積約10平方キロ。これが1970年代に入って急成長、高層ビルがスカイラインを描く現在の姿に至る。二匹目の泥鰌を狙ってアヤラは1980年代にセブへ進出、セブ市内にあったゴルフ場と飛行場を買収、ゴルフ場跡がセブを代表するモールを持つ「アヤラ・ビジネス・パーク」、飛行場跡が「Asia Town」から「ITパーク」となって、現在も開発は続いている。

海軍神風特攻隊が出撃したセブの飛行場と史実
 海軍神風(しんぷう)特別攻撃隊はルソン島マバラカット町にあった飛行場(かつての米軍クラーク飛行場近辺)が始まりとする記述は多く、実際、マバラカット町には碑も建てられ慰霊祭が行われている。しかし、攻撃の正しい史実が伝わっていない事も多く、最近でもセブの邦字刊行物に誤った記述を見た。
 1944年10月17日、フィリピン本拠の海軍第一航空艦隊司令長官として大西瀧治郎中将が来比。既に可動機は40機に満たなく、大西は特攻作戦生みの親とされるが、特攻作戦は大本営内部で早くから検討されていて、大西は史上初の特攻作戦をフィリピンの前線で指揮した人物と見た方が良い。大西は敗戦翌日に「若い命を死に追いやった」と自決をしたが、この理屈でいくと腹を切らなければいけない日本の高級軍人は山ほどいる。
 さて、20日にマバラカットの第二〇一航空隊から敷島、大和、朝日、山桜の4隊を編成、翌21日からレイテ方面へ攻撃が始まる。この日は天候不順で敵を見ず、セブに移動していた大和隊の久納好孚中尉(予備学生・法政大卒)が同日セブから単機レイテ方面に出撃、未帰還だった久納は海軍特攻作戦第1号の戦死者となった。また、同戦死者第2号は23日、やはりセブ基地から出撃し未帰還だった同隊の佐藤馨上飛曹となる。
 一方、マバラカットの敷島隊は25日、実に4度目の出撃で、レイテ沖の米艦船攻撃に成功。28日、全軍布告の最高栄誉が連合艦隊長官名で関行男隊長(海兵70期)以下に与えられ、軍神への道が開かれた。ところが、この25日の攻撃ではミンダナオ島ダバオ基地から出撃した朝日隊と山桜隊が敷島隊より早く戦果を挙げていて、こちらが攻撃一番乗りの栄誉を受けて良いのに、なぜか戦果報告が途中で留め置かれてしまった。
 これは特攻成果と戦死第1号を海兵出の指揮官にすると軍上層部で決めていたためで、敷島隊の関は海軍兵学校出ゆえに新婚にも関わらず貧乏くじを引かされた。セブから出撃の久納、佐藤、ダバオ組も後から全軍布告の栄誉は受けたが、関の敷島隊と比べて戦史上では不運な扱いとなっている。

平和な時代の元海軍特攻隊基地
 私がセブに住み始めたのは1991年からで、当時の特攻隊が飛び立った飛行場は時折軽飛行機が離発着する程度で、滑走路を横断する道路はその時だけ通行止めという呑気な時代だった。夜はアスファルトの滑走路から熱が伝わる中、夕涼みをした空間で、本当かどうか分からないが、戦後しばらく経ってから日本からの旅客機がこの空港に降りたという話もある。なお、現在のマクタン・セブ国際空港も戦時中には海軍の飛行場として使われ、セブの飛行場指揮所からマクタン島のヤシの連なりが見えたという。
 やがてセブの空港は廃港。先に書いたようにアヤラによって再開発されるが、なかなか開発は進まず、当初はカジノと大きな展示場を持ったホテルといくつかの企業の小さな建物があるだけだった。ところが2005年前後からBPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング・)事業、いわゆるコールセンターが活況を呈し、この地はそれらのオフィス需要から建設ラッシュが始まった。それに加えて居住地としても見直され、高層コンドミニアムが作られ、計画も含めていくつも建設中である。
 こういった建物の1階部分には各種飲食店が入り、コールセンター事業で働く人々は普通の会社より給与ベースがかなり良いため、普通のフィリピン人が飲むには高額なアメリカのコーヒーやドーナツのチェーン店などに出入りする。またコールセンターは欧米向けが多く、フィリピンとは昼夜逆になるため、そこで従事する人々が昼夜を問わず出入りし、新しい風俗、風景を生んでいる。
 この平和になったセブ基地跡に特攻隊の事績を印そうとの動きもあるが、こういった類は慰霊の名を借りた過去の美化が多く、その当否は攻撃された連合軍側と蹂躙されたフィリピン側の意見と賛同があっての話で、何もないことが相応しい場合もある。

ナビ・デ・セブ第1号[Navi de Cebu Vol. 1]より

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