リゾートアイランド・セブのこだわり生活情報誌
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フィリピン史の原点、マクタンの戦い

火砲のマゼラン軍 vs 弓矢のラプラプ隊

Kadaugan sa Mactan

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   フィリピンは16世紀から20世紀半ばまで、ほぼ400年にわたってスペインとアメリカの統治下に置かれたが、歴史の原点には輝かしい一頁を刻んでいる。それは臼砲、鉄砲などの火器で武装したマゼラン提督の軍に弓、矢、刀のラプラプ酋長の部隊が立ち向かい、巧みな戦法でこれを撃退、マゼランを殺害した事実である。

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セブから行くバコロド!!

 観光スポットになった砂糖貴族の「廃墟」- Bacolod
“The Ruins” (The Don Mariano Ledesma Lacson Mansion)

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マタタン島、戦いの跡は今 ? マタタンにいた「レンジャー部隊」

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   84年頃だったと記憶しますが、今のシャングリラ・ホテルから少しプンタ・エンガニョ岬の方へ入った辺りに、対ゲリラ戦用に鍛え抜かれたフィリピン軍の精鋭「レンジャー部隊」が駐留していました。彼らはミンダナオ島、スルー諸島などで「モロ民族解放戦線」などイスラム徒族との血なまぐさい戦闘を経た生き残りの精鋭でした。
   一見しただけでも普通の兵隊と人相も服装も違いました。血なまぐさい戦場から帰ったばかりという雰囲気を周囲にまき散らしていました。隊長はサパンディハ(Sabandija)という大尉でした。隊長以下全員が髪の毛を長く伸ばしたままで切ったことはないという。長髪、髭もじゃで真っ黒に日焼けして眼光鋭く、戦闘服を着て街中を歩くわけですからいやでも目立ちます。一般市民も彼らには一目置いて「敬して遠ざける」という感覚のようでした。最初セブ市中でトラック上に仁王立ちした彼らを見たときは、またクーデターかとビックリしたものでした。それほど凄まじい雰囲気を漂わせていましたが、事実、数週間前まではミダナオ島各地で、現実に人殺しの戦いを続けてきた連中ですから「サモアリナン」ということでした。彼らは、生死が紙一重の戦場にいたわけですから迷信深くなっており「長い髪の毛が力の源泉」だと信じ切って、絶対に髪の毛は切ろうとしません。だからいつまでも凄まじい雰囲気を失いませんでした。 マタタン島、戦いの跡は今 ? マタタンにいた「レンジャー部隊」

1990年代初頭回想のセブ島暮らし

By  松本 重樹

   齢を重ねると昔のことを懐かしむのはDNAのなせる技、などと書くと大袈裟になるが、私もその領域に達し文章化して残したいという気持ちを持つようになった。今回は1990年代初頭、セブに10階建て以上のビルが3つしかなかった時代を振り返えるが、中には私の記憶違い、混同などもあろうが、『あれはこうだった』と話が弾めば、セブの活性化にも寄与するのではないかと思っている。

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ビサヤ地方出身のペドロ・カルンソッドが列聖

1   フィリピンで2番目の聖人となったビサヤ地方出身のペドロ・カルンソッドの聖像がビサヤ、ミンダナオ各地の巡礼を終えてセブ市に到着した。昨年の11 月30日にはセブ市内の「サウスロード・プロパティ」の特設会場で聖人認定の感謝ミサが盛大に行われた。出席したアキノ大統領はスピーチの中で「聖ペドロ・カルンソッドは一人の人間が変化をもたらし、それを広げることができることを証明した。フィリピン人は彼の人生を見習うべきだ」と訴えた。 10月21日にバチカンでローマ教皇ベネディクト16世により正式に聖人に叙せられた後、カルンソッドの聖像は全国の教会を巡回し各地で熱烈な歓迎を受けた。
   フィリピン人の列聖は1987年のサンロレンソ・ルイス(1637年に長崎で殉教)に続き2人目。
   カトリック教会では布教中に殉教した聖職者や信者を「福者」や「聖人」に認定して、その功績をたたえている。カルンソッドについては歴史資料がほとんど残っておらず、セブのビダル枢機卿らの精力的な働きかけで、聖人認定までこぎつけたと言われている。カルンソッド聖人の出生地についても諸説があって定かではない。セブ州ギナティラン町に同姓が多いところから、有力視されているが、イロイロ、ボホール、レイテ各州出生説もあり、確定していない。本人のポートレートや聖像も1990年代にパナイ島に実在した青年信者らをモデルに作成されたという。

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昔日(戦前)のセブ

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昔日(戦前)のセブ
Prewar Days of Cebu

   私が大阪貿易社員としてセブに渡ったのは、1935年9月だった。当時はフィリピンといっても地球上のどこにあるのか知らない人が多かった。ましてや「セブ」と聞かされても、全く見当もつかなかった。その頃のセブ市は「南のクイーン・シティ」「歴史の都」と呼ばれていて、1738年スペインの築いた石造りの「サン・ペドロ要塞」が昔と変わらぬ光を伝えていた。「聖オーガスチン教会」は1565年にマゼラン・クロスの脇に建てられたが、二度にわたる大火で消失、1735年~40年にかけて再建されたもので先の大戦の戦火から免れた。
   市内にコロン通りと言われる、フィリピン最古のスペイン時代の街並みがあった(コロン通りの名はコロンブスに由来する)。

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   1660年代には交易の要地として繁栄したセブ市の中心街で、珊瑚礁で築かれた家、彫刻のある建物、石畳の道などその昔の栄華を誇った面影が偲ばれた。しかし1942年4月10日、日本軍の川口支隊がセブ市南方のタリサイ海岸に上陸した朝、米比軍の『焦土撤収作戦』で中心街が跡形もなく瓦礫の原と化した事が惜しまれる。 当時市内の交通はカルマタ(馬車)が頼みであった。10センタボスも払うと市内は大体行く事が出来た。汚い話だが懐かしいといえば、黄色い馬糞が乾燥しその粉末が埃となり店の台や棚を覆い、鼻をほじると黄色い鼻クソが出てきたことである。コーヒーやコカ・コーラが5センタボスで飲めた。ジョーンズ・アベニューも道の両側からアカシアの古木がうっそうと繁り緑のトンネルを作っていた。
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   マンゴー通りも道の中心をマンゴーの並木が連なり、その中をカタコト、カタコトとカルマタが屈託なく走っていた。日曜日ともなると、ロータリーのフェンテ・オスメニアには良家の子女が、その頃では流行の先端で珍しがられた色とりどりのパンタロン・ルックでローラー・スケートを楽しんでいた。フェンテ・オスメニアからキャピトルまでは、国立図書館があるだけで他に建物はなく広場になっていた。
   当時、既に日本人の活動も盛んであった。在留邦人も250名位住んでいた。ボルネオ街に、「京都」「大阪」「セントラル」のバザール(商店)、向かいには「大正バザール」があった。マガリヤネス街には「昭和」「サクラ」「森」「日本」の各バザール、森自転車、砂田写真展などが商店街の一角を占めていた。その他、「マヨン」「オネスト」「世界」の各バザールが市内に点在。大阪貿易、三井物産、サンポート、下村モンゴ店(ハロハロの元祖)、衣笠日本料理店、中村旅館、川戸建設、また漁業関係では沖縄出身の長嶺組、当山組が活躍し、木材、鉱山方面にも2、3の企業があった。
   ラフッグには1935年に立派な日本人小学校が新築され、30人前後が在校していた。毎年4月29日(天皇誕生日)には在留邦人一同が会し、在校生と共に奉祝運動会を盛大に行った。
   そんなセブ市も、マンゴー通りの並木も道路整理のため1本残らず切り払われ、昔を偲ぶよすがもない。ジョーンズ・アベニューも古木に替わって、戦後植えられたアカシアが大分成長している。カルマタの蹄の音も市内では耳にする事が希になった。南の楽園として、自然と人も牧歌調だった風情もすっかり都市化されて、文明の荒廃の渦に巻き込まれている。セブの人々は独自の歴史伝統、文化をどこかに置き忘れているのではないだろうか。
 尚、私は1945年11月、敗戦による引き揚げ帰国で丸10年ぶりに、セブから愛媛県の故郷に帰った。50余年経った今、一将の功もならず万骨も枯れてしまったが、1991年と95年の二度セブを訪れている。
   『セブ島通信』第51号(1999年7月)より転載(写真:編集部)

ナビ・デ・セブ第2号[Navi de Cebu Vol. 2]より

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セブとマカティにあった 飛行場の今昔

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By: 松本重樹
   山下奉文大将といえば、戦犯として処刑後も「山下財宝」の話題に今も事欠かない人物だが、1944年(昭和19年)9月、満州に飛ばされていた山下はフィリピン守旧の陸軍第14方面軍司令官としてマニラに着任。その時降りた空港がY字状に2本の滑走路を持つ「ネルソン飛行場」で、主滑走路は現在のマカティ市アヤラ通りに当たる。
 山下の着任時の第一声が「レイテってどこだ」とあるが、これはいかにも出来過ぎた話で、山下はそんな凡将ではない。ただし、無策、泥縄だった軍部の象徴として見れば、フィリピン戦線にはこの科白は似合う。
 戦後のネルソン飛行場は国際空港として使われ、1948年に短い使命を終えるが、もう1本の滑走路(現在のパセオ・デ・ロハス通り)がアヤラ通りに交差する地点に当時の管制塔が健在、「ネルソン・タワー」と命名され今は博物館になっている。

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