リゾートアイランド・セブのこだわり生活情報誌
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「ブサイ村と菊」- セブで実を結ぶんだ日本人の「遺産」

By: 岡 昭 (日刊マニラ新聞セブ支局長)

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   フィリピンの庶民が描いてきた歴史のキャンバス。そこにすっかり溶け込んだ「日本の色」がある。戦前、そして戦後に草の根の日本人が残したもので、太平洋戦争中に日本軍が塗り込めた「負」の絵の具とは対照的に明るく、さわやかな色彩だ。日本菊、カボチャ、和紙の原料である楮(コウゾ)、畳材の藺草(イグサ)の栽培……。そのいずれもが、今ではフィリピンの庶民の貴重な生活の糧になっている。そこで、この国の土壌で実を結ぶ先輩・日本人の「遺産」のひとつを紹介する。
今、セブの下町で市民の胃袋といわれ東洋一の規模を誇るカルボン・マーケットやその近くにある一五世紀に建てられたカテドラルの前で売られている切り花のほとんどは、昔、日本の山里で咲き乱れていた菊の花であることに驚かされる。明らかに「伊勢菊」とおもわれる品種だ。
   売り子のマリアおばさんに聞くと、「日本菊を育てているのはセブ市西側の山の上にあるブサイ部落だよ。栽培が易しく、日持ちが良いのさ」。

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1年の3分の1はクリスマス?? 「ピナスコハン」って?

連載コラム  Hinay-hinay lang! ヒーナイ・ヒーナイ・ラン!
「ヒーナイ・ヒーナイ・ラン」とは「ゆっくりやろうよ…」という意味のセブアノ語です。

   フィリピンでは「~er」のつく月はクリスマスだといわれている。だから9月に入ると「メリークリスマス!」なんて言われることもある。いくらなんでもそれは冗談だろうと思っていたが、9月中旬くらいになるとデパートではクリスマスソングが流れ、従業員たちがサンタクロースの帽子を被っているのを見た時には驚いた。しかしあまり先走って盛り上がるのはいかがなものか、と思う。現にここ数年の私は、クリスマスな日常に慣れてしまい、何も準備をしないまま気が付けば12月24日になっていて、あせって買い物やらをしに行かなければならない。12月24日のデパートやスーパーマーケットはものすごい人である。何でこんなギリギリになってクリスマスの準備をするんだ、まったくフィリピン人は計画性がない、と以前は思ってはいたが、今ではすっかり「フィリピン人」化してしまって、黙って軽く30分はレジを待っている。
   クリスマスといえば「ピナスコハン」である。「ピナスコハン」とは、厳密にはわからないが私が思うにクリスマスプレゼントのような、お歳暮のようなものである。セブに住み始めた頃はこの時期になると、とにかく会う人会う人に「ピナスコハン、ちょうだい!」と言われた。初心だった私は、面と向かって言われればあげなければならないものだと思っていた。となると経済的にもかなりの負担で、この時期、真剣にあんまり外をウロウロしたくなかったものだ。しかし数年経つと、この「ピナスコハン、ちょうだい!」は、明らかに自分より生活レベルが下の人たちから言われることに気が付いた。そしていちいち本当にあげなくても別にどうということもないこともわかってきた。言っている人にしてみれば、挨拶のようなもので、どのくらいの本気度かは計り知れないが、だからといってあげなかったとしても、わざわざ家に押しかけてくることはない。カトリックの洗礼式の時に後見人になってしまった子供を除けば。

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フィリピンの英語留学 「アエラ」が紹介

フィリピンの英語留学 「アエラ」が特集記事で紹介 「低予算」、「高品質の個人授業」と人気

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   就職活動で英語力が問われる求人が増えている中、「低予算」、「高品質の個人授業」、「親しみやすさ」などの理由で、アジアを代表する「英語国フィリピン」が新しい留学先として注目を集めている。フィリピンでの英語留学といえばこれまでは韓国人が圧倒的多数だったが近年、韓国人経営の語学学校で学ぶ日本人学生の姿が目立ってきている。8月22日発売の雑誌「AERA」、続く「AERA ENGLISH」の10月号(8月23日発売)が相次いでフィリピンでの英語留学特集を組むなど、日本でのフィリピン語学留学ムードが一気に熱を帯びてくる気配だ。
   特集では同誌の澤田晃宏記者(30)が留学生数人に直接インタビューするとともに体験入学して学校や寮を訪問、「フィリピン留学『月10万』英語力」、「寮や飲み会も英語漬け」など、米国やカナダと比べて物価が安い英語国フィリピンでの、楽しく充実した留学生活を紹介している。予算的な「お手ごろ感」やレベルに応じた個人指導、買い物から食事まで「英語漬け」の日々、また人々のフレンドリーさなどが、フィリピン語学留学の大きな魅力のようだ。
   フィリピンは世界でも有数の英語国。20世紀に入り、宗主国アメリカが多数の英語教師をこの国に送り込み、言葉と一緒に文化や生活習慣をフィリピンに植え付けたからだ。この国に根を下ろしてすでに1世紀以上が経ったことになる。世界にたくさんある英語の一つのバリエーションとして、気取らないフィリピン英語は耳にやさしくて聞き取りやすい。
   現在も学術論文、小説、新聞、仕事の契約書など、ほとんどが英語で書かれ、英語はフィリピンの公用語としての高い地位を維持している。高等教育での英語の運用能力レベルは日本と比較にならないほど高く、日本の高校生のような年齢の学生が、授業で堂々と英語でレポート発表しているのだ。そうした高いレベルの英語が教えられる人材が豊富なことも、フィリピン英語留学のメリットとなっている。「フィリピン英語は本物か?」の問いもあるが、遊説先で完璧な英語で演説をこなすフィリピンの政府高官や歴代の大統領を見れば一目瞭然、フィリピン英語は堂々と世界に通用する立派な「イングリッシュ」なのだ。

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第20回(最終回) 閉ざされた地アブラ

フィリピン医療ボランティアの旅 1988年9月 By: 星野邦夫   ABRA-1988 By: Dr. Kunio Hoshino

村落間の平和協定で銅鑼をたたきながら踊る村人

 アブラとは「開く」、バンゲッドは「閉じる」を意味する。アブラ州都バンゲッドとは「開かれた地の閉ざされた町」ということになる。実際はアブラ州は閉ざされた土地である。州の中央を80キロに亘って流れるアブラ川は両岸を急峻な山によって挟まれ、舟の往来を許さない激流となってビガンまで流れ下る。近年になってトンネルが開通し、自動車が通えるようになるまで交通は不便であった。それにしても州庁所在地のバンゲッド町へはビガンから直線距離にして25キロしかないのに、迂回して50キロの山坂道を辿らねばならなかった。 
写真提供: 杉井信氏(宮城学院女子大学 准教授)

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第19回 ドゥマガトゥ族に会う 1986年1月

フィリピン医療ボランティアの旅 1986年1月 The Dumagat Tribal Folk of Bulacan - 1986  By: 星野邦夫 Dr. Kunio Hoshino

ドマガツ族母子

フィリピンの先住民族は総称してネグリト族と呼ばれる。大陸と地続きだった時代に肌の黒い、髪の毛が縮れた小柄な、彼らの先祖が来て住みついたようだ。フィリピンが小さな島々に分かれてから、船を建造できるマレー人が渡航して来たので、先住民たるネグリト族は山の中に追いやられた。中部ルソンの、主としてブラカン州の山中に入った人たちがドゥマガトゥ族である。ピナツボ噴火のために移住せざるを得なくなった種族はアエタ族と呼ばれる。ミンドロ島にもいると言われるし、ミンダナオ島では石器時代の生活を保っている人たちが発見されたこともあった。

私の友人の父アレホ・サントスは第2次大戦前はマニラの巡査であったが、バターンでの日本軍の行為を聞くに及び、職を捨てて抗日ゲリラの群れに身を投じた。彼はリーダーシップに富み、勇敢だったので、戦争が終わるころはブラカン州ゲリラ隊の隊長になり、山中でドゥマガトゥ族と親しくなった。
   当時のドゥマガトゥ族は未開の生活をしていた。男はふんどし一丁、女は腰巻だけのトップレス姿で、あちらに1家族、こちらに1家族と家族単位の生活であった。耕作も家畜飼育もせず、男は槍で野豚をとり、女は木の実を採集していた。

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第18回 フィリピン医療ボランティアの旅 1988年8月18日 By: 星野邦夫

ブキッドノン、日本人を怖がる人々

The people who are afraid of Japanese, Bukidnon - 1988
By: Dr. Kunio Hoshino

bukidnon

 mapミンダナオ島内陸部にある州のブキッドノンとは「山」を意味し、州庁所在地のマライバライとは「無人の地」を意味する。ブキッドノンはその名の通り高原にあり、松が生え、広大な牧草地に牛が放牧されているのどかな田舎だが、マライバライは人がいないどころか、街路に人があふれていた。もっとも昼時なので、サラリーマンや学校生徒らが食事に家に帰る時刻でもあった。
 1988年8月18日、私はカガヤン・デ・オロ市の知人からドライバー付きタマラオ・ワゴン車を借り、160キロの道のりを走破して到着したばかりであった。まず州立大学へ行き、副学長を探した。この人がマライバライ・ロータリークラブ会長で、私はすでに3通もの手紙を送り、ハンセン病対策への協力を呼びかけていた。返事はなかったが……。
 マニラの保健省から、「ブキッドノンの山間にはハンセン病患者が多く居住している」と話を聞き、どうしても対策を開始して貰わねばと山道をいとわず訪問したのである。
 大学玄関を警護していたガードマンは英語を解しなかったが、ジェスチャーから、私の訪ねる人は大学にいず、昼食のために自宅へ帰ったと知らせた。それで私はワゴン車のドライバーに来て貰い、ガードマンから副学長の自宅へ行く道を聞き出してもらった。

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第17回 混沌たるマラウィ (南ラナオ州)

フィリピン医療ボランティアの旅 1988年8月847   By: 星野邦夫

ラナオ湖畔の町マラウィ

 ミンダナオ島内陸の南ラナオ州にあるラナオ湖は標高700メートル、面積357平方キロ、平均水深60メートル、一番深いところは112メートル、フィリピン第2の湖である。鯉の一種であるバングースなどの川魚が住民の生活を支えている。湖畔にはマラウィ市(人口7万、州庁所在地、当時)をはじめ16の町村が連なり、住民はマラナオ(ラナオ湖の人という意)と呼ばれている。ここを中心とする南ラナオ州の人口50万のうち90%はイスラム教徒である。

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第15回 コタバトの紛争

フィリピン医療ボランティアの旅 1998年9月29日
By: 星野邦夫

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「ホテルに泊まってはいかん」
   1998年9月29日、ミンダナオ南西部のコタバト空港に着いた私は、出迎えにきているはずの友人トマス・アチエンサとチュア・ベン・ユーの2人を探したが、その姿は何処にもなかった。「忘れたか?」と思った。「日を間違えたかな?」とも思った。フィリピンではいつでもあり得ることであった。空港建物前から乗り合いジプニーが発車するところだったので、後部座席に飛び乗った私は隣に座った男に、「この車はアリストクラット・ホテルへ行きますか?」と訊いた。男は、「ああ、行く。ホテルに着いたら教えてやる」と答えたので安心した。
   ホテルでチャックインしていると2人がやって来た。チョビひげを生やし腹の突き出たトマスは、コタバト・ロータリークラブ会長で建築業を営む中国系。痩せたチュアはトマスのいとこで、ロータリー会員、製材会社を経営していた。私は2人とセブで知り合っていた。空港へ出迎えに行ったら誰もいず、「日本人ならジープニーに乗った」と聞いてホテルへ追っかけてきたという。
   「ホテルに泊まってはいかん。チュアの家に泊まれ」とトマスが言う。前月、南ラナオ州の州都マラウィで言われたのと同じだと思った。私はホテルの方が自由がきくし、町なかを散歩して歩けるので好きだった。市場へ行って売られている鮮魚や小鳥などを見たいし、埠頭へ行って乗り降りする人を観察したかった。しかし、2人の好意を無にすることが出来ないので、チュアの家に泊まることにした。それは電動式の丸鋸を備えた工場の隣にある2階建ての豪壮なやかたであった。
   午後、チュア夫妻がこもごも語る町の話に慄然とした。前後関係を整理すると次のようになる。

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