マタタン島、戦いの跡は今 ? マタタンにいた「レンジャー部隊」
![]() |
一見しただけでも普通の兵隊と人相も服装も違いました。血なまぐさい戦場から帰ったばかりという雰囲気を周囲にまき散らしていました。隊長はサパンディハ(Sabandija)という大尉でした。隊長以下全員が髪の毛を長く伸ばしたままで切ったことはないという。長髪、髭もじゃで真っ黒に日焼けして眼光鋭く、戦闘服を着て街中を歩くわけですからいやでも目立ちます。一般市民も彼らには一目置いて「敬して遠ざける」という感覚のようでした。最初セブ市中でトラック上に仁王立ちした彼らを見たときは、またクーデターかとビックリしたものでした。それほど凄まじい雰囲気を漂わせていましたが、事実、数週間前まではミダナオ島各地で、現実に人殺しの戦いを続けてきた連中ですから「サモアリナン」ということでした。彼らは、生死が紙一重の戦場にいたわけですから迷信深くなっており「長い髪の毛が力の源泉」だと信じ切って、絶対に髪の毛は切ろうとしません。だからいつまでも凄まじい雰囲気を失いませんでした。 マタタン島、戦いの跡は今 ? マタタンにいた「レンジャー部隊」
「ヤップ-サンディエゴ家の旧邸」 The Yap-Sandiego Ancestral House
セブ旧市街にある「パリアン広場」。このあたりは19世紀の中頃まで福建出身の中国人やフィリピン人との混血(メスティーソ)の街として栄え、今も「パリアン」として知られている。公園のすぐ裏手、マビニ通りに「ヤップ-サンディエゴ家の旧邸(以下ヤップ・ハウス)」と呼ばれる中国人の古い家屋が残っている。当時の中国人の家や商店は現在の公園から東側に軒を連ね、ヤップ・ハウスのような赤い瓦屋根が、港まで続く小さな通りを賑わしていたようだ。旧邸は今から300年以上前に建てられた「フィリピンでも最古の家」とされている。初代の所有者は、織物や布地の問屋を家業としていた中国人商人ドン・フアン・ヤップ夫妻だったが、長女のマリアさんが当時、パリアンの区長を務めていたブラカン州(ルソン島)オバンド町出身のフィリピン人、ドン・マリアノ・サンディエゴ氏と結婚、サンディエゴ氏がヤップ家を継ぐことになったという。 ヤップ・ハウスの構造を見てみよう。まず1階部分の分厚い壁は石灰石を積み重ねた頑丈なつくりとなっている。そして2階部分は木造。2階の床や壁は木質が堅いモラベやバラヨン(パラワンチェリー)の木でできている。1階は問屋の倉庫に、2階は住居として使われていた。
1990年代初頭回想のセブ島暮らし
By 松本 重樹
齢を重ねると昔のことを懐かしむのはDNAのなせる技、などと書くと大袈裟になるが、私もその領域に達し文章化して残したいという気持ちを持つようになった。今回は1990年代初頭、セブに10階建て以上のビルが3つしかなかった時代を振り返えるが、中には私の記憶違い、混同などもあろうが、『あれはこうだった』と話が弾めば、セブの活性化にも寄与するのではないかと思っている。
ビサヤ地方出身のペドロ・カルンソッドが列聖
![]() フィリピン人の列聖は1987年のサンロレンソ・ルイス(1637年に長崎で殉教)に続き2人目。 カトリック教会では布教中に殉教した聖職者や信者を「福者」や「聖人」に認定して、その功績をたたえている。カルンソッドについては歴史資料がほとんど残っておらず、セブのビダル枢機卿らの精力的な働きかけで、聖人認定までこぎつけたと言われている。カルンソッド聖人の出生地についても諸説があって定かではない。セブ州ギナティラン町に同姓が多いところから、有力視されているが、イロイロ、ボホール、レイテ各州出生説もあり、確定していない。本人のポートレートや聖像も1990年代にパナイ島に実在した青年信者らをモデルに作成されたという。 |
昔日(戦前)のセブ
昔日(戦前)のセブ
Prewar Days of Cebu
私が大阪貿易社員としてセブに渡ったのは、1935年9月だった。当時はフィリピンといっても地球上のどこにあるのか知らない人が多かった。ましてや「セブ」と聞かされても、全く見当もつかなかった。その頃のセブ市は「南のクイーン・シティ」「歴史の都」と呼ばれていて、1738年スペインの築いた石造りの「サン・ペドロ要塞」が昔と変わらぬ光を伝えていた。「聖オーガスチン教会」は1565年にマゼラン・クロスの脇に建てられたが、二度にわたる大火で消失、1735年~40年にかけて再建されたもので先の大戦の戦火から免れた。
市内にコロン通りと言われる、フィリピン最古のスペイン時代の街並みがあった(コロン通りの名はコロンブスに由来する)。
![]() |
![]() |
当時、既に日本人の活動も盛んであった。在留邦人も250名位住んでいた。ボルネオ街に、「京都」「大阪」「セントラル」のバザール(商店)、向かいには「大正バザール」があった。マガリヤネス街には「昭和」「サクラ」「森」「日本」の各バザール、森自転車、砂田写真展などが商店街の一角を占めていた。その他、「マヨン」「オネスト」「世界」の各バザールが市内に点在。大阪貿易、三井物産、サンポート、下村モンゴ店(ハロハロの元祖)、衣笠日本料理店、中村旅館、川戸建設、また漁業関係では沖縄出身の長嶺組、当山組が活躍し、木材、鉱山方面にも2、3の企業があった。
ラフッグには1935年に立派な日本人小学校が新築され、30人前後が在校していた。毎年4月29日(天皇誕生日)には在留邦人一同が会し、在校生と共に奉祝運動会を盛大に行った。
そんなセブ市も、マンゴー通りの並木も道路整理のため1本残らず切り払われ、昔を偲ぶよすがもない。ジョーンズ・アベニューも古木に替わって、戦後植えられたアカシアが大分成長している。カルマタの蹄の音も市内では耳にする事が希になった。南の楽園として、自然と人も牧歌調だった風情もすっかり都市化されて、文明の荒廃の渦に巻き込まれている。セブの人々は独自の歴史伝統、文化をどこかに置き忘れているのではないだろうか。
尚、私は1945年11月、敗戦による引き揚げ帰国で丸10年ぶりに、セブから愛媛県の故郷に帰った。50余年経った今、一将の功もならず万骨も枯れてしまったが、1991年と95年の二度セブを訪れている。
『セブ島通信』第51号(1999年7月)より転載(写真:編集部)
ナビ・デ・セブ第2号[Navi de Cebu Vol. 2]より
![]() |
セブとマカティにあった 飛行場の今昔
|
山下奉文大将といえば、戦犯として処刑後も「山下財宝」の話題に今も事欠かない人物だが、1944年(昭和19年)9月、満州に飛ばされていた山下はフィリピン守旧の陸軍第14方面軍司令官としてマニラに着任。その時降りた空港がY字状に2本の滑走路を持つ「ネルソン飛行場」で、主滑走路は現在のマカティ市アヤラ通りに当たる。
山下の着任時の第一声が「レイテってどこだ」とあるが、これはいかにも出来過ぎた話で、山下はそんな凡将ではない。ただし、無策、泥縄だった軍部の象徴として見れば、フィリピン戦線にはこの科白は似合う。
戦後のネルソン飛行場は国際空港として使われ、1948年に短い使命を終えるが、もう1本の滑走路(現在のパセオ・デ・ロハス通り)がアヤラ通りに交差する地点に当時の管制塔が健在、「ネルソン・タワー」と命名され今は博物館になっている。
「フィリピン病?」にかかる人
Mr. Oka Story
在比日本大使館の邦人保護・年間件数が、不名誉な「世界一」となった。朝日新聞がいち早く全1頁近い記事として報道したこともあって、「困窮邦人」という言葉が日本でも知られ始めた。私が1999年7 月号の「セブ島通信」でタイトルに「困窮邦人と詐欺師」として使ってからは、すでに13 年経った。私も知るノンフィクション・ライターがいう「フィリピン病にかかる人」と、「困窮邦人」は直結する。また、極貧社会に沈む新日系二世の日本人父は、ほとんどがフィリピン病にかかっている。そして、末路は次のようになる。
日本人ミュージシャン、セブで人気
Iwapt (イワプト)さん
ドラマの主題歌も
日本人ミュージシャン、Iwapt(イワプト)さんが、セブのテレビ、ラジオ局で人気を呼んでいる。昨年10月、GMAテレビの朝の番組、ブエナ・マノ・バリタ(Buena Mano Balita)に出演、自作のドクター・クリニック(Dr.Clinin)を歌い、キャスターのヨリー(YORIE)さんからインタビューを受けた。ドラマーのニノ・レガラド(NINO REGARADO)さんなどフィリピン人アーティストとの共演も多く、セブの人気ラジオ局からもポップス、ロック、クラブミュージックなどIwaptさん創作の楽曲が放送されている。